那須温泉神社 | この美しき瑞穂の国

那須温泉神社

2010年9月12日栃木県那須郡那須町の那須温泉神社にお参りした。


今年は9月に入っても全国的に猛暑日が続いていたが、この日の那須は雨天で冷たい風が吹き肌寒かった。


那須温泉神社は最寄りの黒磯駅からバスで那須湯本下車徒歩すぐである。


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那須温泉神社には数年前、那須に仕事で来ていた北海道の友人と共にレンタカーで訪れたことがある。その時も雨だった。


一ノ鳥居をくぐると鹿の像がある。


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写真右側に指がかぶってしまった。


第34代舒明天皇の御代、茗荷沢村の住人、狩野三郎行広が大きな白鹿を見つけて矢傷を負わた。そしてなおも追い続けると霧生谷(那須元湯付近)に至った。すると白鹿が温泉に浸かって傷を癒しているのを見て那須温泉を発見したという。


更に境内を進む。

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参道中程には那須余一宗隆(なすのよいちむねたか)奉納の鳥居がある。


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那須余一は一般的には那須与一と記されることの方が多い。『与一』とは十あまり一、つまり十一男のことだ。


那須与一は源平合戦の際に源義経に従い、屋島の戦いの最中、平家方が『この扇を弓で射ぬいてみせよ。』と挑発して掲げた日の丸の扇子を弓矢で射落とした弓の名手である。


その際『南無八幡大菩薩、別しては我が国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の温泉(ゆぜん)大明神、願はくはあの扇の真中射させて給ばせ給へ。これを射損ずるものならば、弓切り折り自害して、人に二度面を向ふべからず。今一度、本国へ帰さんと思し召さば、この矢はずさせ給うな。』と祈念し、見事に扇を射落としたのである。この時与一は二十歳であった。


那須与一は那須氏の二代目当主となり、下野国における那須氏発展の礎を築いたが1189年、屋島の戦いより4年後に亡くなったという。


ある伝説によれば那須与一は源義経に組していたため、源頼朝による粛清から逃れるために死んだことにして出家し、あちこちに行脚したという話もあるようだ。


那須余一宗隆奉納の鳥居をくぐるとすぐ右手には御神木がある。

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この御神木は樹齢推定800年、樹高18メートル、幹周り4メートルのミズナラの木で『生きる』と命名されている。『生きる』はいまなお樹勢が盛んであり、名前の通り生命力に満ちあふれている。


更に参道を進む。

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那須温泉神社の手水舎。

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この神社の手水は温泉である。この日の那須は肌寒いほどだったので温かい温泉の手水はありがたかった。


手水で清めた後に拝殿にお参り。

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那須温泉神社の御祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)。相殿に誉田別命(ほむだわけのみこと)を祀る。


第34代舒明(じょめい)天皇の御代(630年)狩野三郎行広が矢傷を負わせた白鹿を追って山中に迷い込んだ際、神の御教えにより温泉を発見し、当神社を創建したという。


日本各地の温泉地の湯元には大抵温泉神社があるが、その御祭神は大己貴命、少彦名命である。これはこの二神が道後温泉や有馬温泉を開湯した伝説にあやかるものだろう。


那須温泉神社は那須与一や玉藻前(たまものまえ)の殺生石(せっしょうせき)で有名であり、殺生石は神社の裏手少し離れたところにある。


那須温泉神社拝殿前にて大祓詞を奏上し、那須温泉大明神の御稜威(みいづ)がより栄えまして当地一帯を常磐に堅磐(かきわ)に護り幸い給えと祈願した。



那須温泉神社をお参りした後は殺生石に向かった。


(つづく)