2014 ソチ五輪 金メダリスト『 羽 生 結 弦 』選手 !! | “ Ackee ” の ブログ !! (b^-゜)

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色々な話題をさらった、

2014 ソチ五輪も無事に2月23日を以って滞りなく閉幕した。

開催前から何かと治安の問題もあったものの、

大きな事件事故等もなく無事に終了した。

開催前から、前評判が高かった選手も数多かった大会だったが、

やはり 『オリンピックには魔物が棲んでいる』 の諺通り、

中々旨くは行かなかった様である。

しかしそんな中、日本もたらした待望の金メダル。

フィギュア・スケート男子シングルで若干19歳の若さでメダルを

獲得した 『 羽 生 結 弦 』 選手。その人である。

(フィギュア・スケート男子シングルで、

金メダルを獲得した、 『 羽 生 結 弦 』 選手。

ショート・プログラムで驚異の100点台を記録。

アジア・日本勢男子としては初の快挙。

8年前のトリノ五輪・フィギュア・スケート女子シングルで

金メダルを獲得した荒川静香さん<プロフィギュア・スケーター>

も初のアジア・日本勢女子として同じ快挙を達成。

共に宮城と所縁のある選手で、金メダルを獲得した事に…。)


ジュニアになる前の1998年の長野五輪フィギュアスケート競技では、

日本代表7人中4人(田村岳斗、本田武史、荒川静香、荒井万里絵)らが

仙台市の東北高等学校に在学中の高校生選手でかつ、

4人とも長久保 裕コーチの教え子だった。

当時仙台ではフィギュアスケートブームが起こり、

長久保コーチや4選手が所属するダイエー系列のスケートリンク

(現・アイスリンク仙台)でプロスケーター・佐野 稔氏が開催した

子供スケート教室に姉が通い始め、

その姉の影響により、羽生自身も4歳でスケートを始めた。

同じダイエー系列の新松戸アイスアリーナが2002年1月に閉鎖になると、

同アリーナの都築 章一郎コーチが仙台に移ってきて、

小学2年から中学3年まで指導を受けた。

ホームリンクは経営者が変った後、2004年12月に閉鎖されたため、

勝山スケーティングクラブ(仙台市)に移った。

(日の丸を背にウィニングランをする羽生選手。)


2006年2月のトリノ五輪フィギュアスケート女子シングルで

金メダルを獲得した荒川静香が記者会見で、

仙台のアイススケート環境の悪化を懸念していると訴えて全国に報道されると、

翌月の仙台市中心部での凱旋パレードおよび「県民栄誉賞」等授与もあって

県内世論が喚起され、2007年3月22日にアイスリンク仙台として営業を再開した。

4月に入って荒川が子供スケート教室を開いた際、

参加した羽生が当時の仙台放送 『情報ライブMovin'』 の生中継において、

荒川に指導されて五輪のメダルを目指す気持ちが高まった旨を語り、

荒川の代名詞であるレイバック・イナバウアーを本人の前で初披露したと言う。

(羽生選手 『 金メダル 』 獲得の瞬間、

          号外が各所で配布された。)


2007-2008シーズン、まだノービスの選手(中学1年)ながら

全日本ジュニア選手権で3位となlり、ノービスの選手が全日本ジュニア選手権

の表彰台に上がるのは日本男子史上初となる。

2008-2009シーズンからジュニアに上がり、ISUジュニアグランプリ (JGP) に参戦。

全日本ジュニア選手権で初優勝を果たし、初出場となった全日本選手権では、

出場選手中最年少ながら8位に入る。

そして世界ジュニア選手権でも大会最年少ながら12位となった。

2009-2010シーズン、初戦のJGP トルン杯でJGP初優勝。

続くクロアチア杯でも優勝し、

JGPファイナルでは史上最年少(14歳)で総合優勝を果たした。

全日本ジュニア選手権では2連覇を達成し、

全日本選手権ではショートプログラム13位から、

フリースケーティングの演技後半に

3回転アクセル-3回転トウループ-2回転トウループの

コンビネーションジャンプを決めるなどして追い上げ、総合6位となった。

世界ジュニア選手権ではフリースケーティングで

大幅にパーソナルベストを更新して優勝。

日本人男子として4人目の世界ジュニアチャンピオンになった。

(帰国後、所属チーム内での共同記者会見の席上で、

お祝いのケーキを前に記者のカメラポーズに

応える、羽生選手。)



2010年4月、東北高等学校に進学。

2010-2011シーズン、シニアデビュー戦となった

ISUグランプリシリーズのNHK杯で、フリースケーティングで自身初となる

4回転トウループを成功させ4位に入った。

出場3回目の全日本選手権では4位となり、四大陸選手権の代表に選出された。

2011年2月に開催された四大陸選手権ではショートプログラム、

フリースケーティング共にパーソナルベストを更新する

演技を見せ初出場ながら銀メダルを獲得、

男子選手としては四大陸選手権史上最年少のメダリストとなった。

しかし翌3月11日、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生。

地震発生時には仙台市の 『 アイスリンク仙台 』 で競技の練習中であり、

スケート靴を履いたまま外へ避難した。

羽生本人や家族、阿部コーチやリンクメイトは無事であったが、

同リンクは被災して営業休止になり、

自宅も大きな被害を受けたため避難所で4日間過ごした。

震災で多くの死者・行方不明者が発生し、

大勢の避難者が避難所生活をしている中、

スケート続けることへの疑問を抱いていたが、

自身が在学する東北高校野球部が避難所でボランティアをしながら

第83回選抜高等学校野球大会(春のセンバツ甲子園)に出場し、

3月28日の初戦を全力で戦っている姿をテレビで観て、

スケートへの意欲を取り戻したと言う。

(2月26日、出身地・仙台に凱旋、

   仙台市役所のロビーには、

   市民1,700人余りの祝福を受けた。)


兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)の41日前に生まれた羽生は、

4月9日に開催された兵庫県スケート連盟主催

「東日本大震災チャリティー演技会 ~復興の街、神戸から~」に招待され、

東北高校の先輩の田村・本田・荒川らと演技を披露した。

4月からは、テクノルアイスパーク新井田(青森県八戸市)や、

かつて師事した都築コーチがいる神奈川スケートリンク(神奈川県横浜市)を仮の拠点とし、

復興支援目的のアイスショーへ多数出演して各地を転々としながら練習を続けた。

7月24日、アイスリンク仙台が営業を再開したため、羽生も地元に拠点を戻した。

(奥山恵美子・仙台市長を表敬訪問。

『金メダル獲得』 の報告をする羽生選手。

仙台市から 『 賛辞の盾 』 が贈られた。)


2011-2012シーズン、9月にはネーベルホルン杯に出場し、

シニアクラスの国際大会では初の優勝を果たす。

ISUグランプリシリーズでは中国杯で4位に終わるも、

続くロステレコム杯でグランプリシリーズ初優勝を果たし、

ISUグランプリファイナル進出を決める。

初のISUグランプリファイナルでは、

総合得点でパーソナルベストを更新するが、

1.73点の僅差で表彰台に届かず4位となる。

全日本選手権では、ショートプログラムで4位と出遅れたが、

フリースケーティングで1位となり総合3位、

これにより自身初の世界選手権の代表に選出された。

その世界選手権ではショートプログラムでは7位にとどまったものの、

フリーでは中盤繋ぎの部分で転倒する

アクシデントを起こしながらも躍進して2位、

初出場ながらもいきなり総合で3位に入り銅メダルを獲得。

また高橋大輔とともに、日本人男子2人が同時に

世界選手権の表彰台に立つ史上初の快挙となった。

特に技術要素点では高橋、パトリック・チャンらを上回る

今大会最高の点数をマークした。なお17歳3ヶ月での世界選手権メダル獲得も、

日本男子選手では羽生が最年少記録となった。


(仙台市役所内で、記者会見を受ける羽生選手。)


2012-2013シーズンに向けて、4月にコーチをブライアン・オーサーに変更し、

夏からはコーチがいるカナダ・トロントに練習拠点を移した。

2012-2013シーズン、フィンランディア杯ではフリーで

トゥループとサルコウの2種類の4回転ジャンプを成功させ優勝。

グランプリシリーズでは初戦のスケートアメリカ、

地元・宮城県で開催された第2戦のNHK杯と、

2戦続けてショートプログラムで歴代最高得点を更新、

GPファイナルでは2位となり、全日本選手権では初優勝を果たした。

四大陸選手権では、ショートプログラムでは1位だったものの、

フリーでは4回転サルコウが2回転に、

3回転ルッツが1回転になるミスがあり3位。総合得点では2位になった。

世界選手権では2月からの体調不良と左膝の故障の影響から

SPでは精彩を欠き9位と出遅れた。

更にフリーの公式練習で右足首を故障したが、

満身創痍で臨んだフリーでは3位となり、総合では4位になった。

左膝の故障の為、2013年世界フィギュアスケート国別対抗戦は辞退した。

2013年4月に早稲田大学に進学。

2013-2014シーズンを前に、2013年7月1日に全日本空輸 (ANA) と所属契約。

シーズンインするとフィンランディア杯で2年連続の優勝。

スケートカナダとエリック・ボンパール杯は共にパトリック・チャンに次ぐ2位。

福岡市で開催されたGPファイナルでは

ショートプログラムの歴代最高得点を更新、

フリーでは自己ベストを大幅に更新し1位で優勝を

果たし、全日本選手権では2連覇を達成した。

(宮城県庁を表敬訪問し、

村井嘉浩・宮城県知事に 『 金メダル獲得 』 の報告。)


2014 ソチオリンピックでは、同大会から新種目としてスタートした団体で

ショートプログラム1位となるが、日本の団体の最終結果は5位。

ソチオリンピック個人では、ショートプログラムでは101.45点を出し、

公式大会世界最高得点かつ史上初の100点超えを達成し首位に立つ。

しかし、フリースケーティングでは、

終了後に「全然動かなかった。(本番直前の)6分間練習から焦っていた

。はっきりいって自分の演技に満足していない。終わった後は、

金メダルは駄目かなと思った」と語ったように、冒頭の4回転サルコウで転倒、

直後の4回転トーループは成功したものの、

3回転フリップで再び転倒し波に乗れず、

過去の自己最高には程遠い178.64点になった。

しかし、ショートプログラムで2位につけていたパトリック・チャン(カナダ)が、

「ユヅルはこういう(首位に立つ)経験に慣れていないはずだ。どう対処するのだろう」と、

羽生を挑発するような発言を前日していたにもかかわらず、

羽生の直後の滑走で、冒頭の4回転-3回転の

コンビネーションジャンプこそ成功させたものの、

中盤の4回転トーループで両手を付き、トリプルアクセルでもバランスを崩し、

その後も細かいミスが続いて羽生のフリーの得点を下回る点しか取れず、

その後に滑走した2選手もメダル圏内には及ばず、

羽生はフィギュアスケート日本人男子初(アジア男子でも初)となる金メダルを獲得した。

表彰後のインタビューでは羽生は笑顔をあまり見せなかったが、

その理由について、 「東日本大震災のことが一番大きい。

僕は何ができたのかなと。(練習拠点を移すためカナダの)トロントに行って、

震災が起きたところから離れた。こんなことで良かったのかなというのもあった。

(さらに)ベストの演技ができなかったという気持ちと、

(金メダルの)実感が湧かないというのもある」と語り、

「宮城県、仙台市、東北、被災地の支援をしてくださった方々がたくさんいると思うので、

感謝の気持ちを持っておかなきゃいけない」と、

被災地の人々への謝辞を述べた。

2014年2月14日時点で羽生は19歳65日という年齢であり、

フィギュアスケート男子シングルの金メダリストとしては

ディック・バトン(アメリカ合衆国)が

1948年のサンモリッツオリンピックで優勝した際の

18歳202日に次ぐ史上2番目の年少記録となり、

66年ぶり2人目の10代での金メダリストになった。

更にオリンピック初出場で金メダルを獲得したのは、

ウルリッヒ・サルコウ、イリヤ・クーリックに次いで史上3人目。

また平成生まれの日本人としては初の金メダリストでもあり

冬季五輪の金メダリストとして記念すべき10人目となった。

(村井知事に金メダルを披露する、羽生選手。)


羽生自身の尊敬する選手は、

エフゲニー・プルシェンコ、アレクセイ・ヤグディン、

ジョニー・ウィアー、荒川静香。

特にソルトレイクシティ五輪でのプルシェンコとヤグディンの

プログラムがお気に入りだという。

荒川静香については、同じアイスリンク仙台で育ち、

東北高、早稲田大でも先輩・後輩の間柄である。

また、荒川が得意としたレイバックイナバウアーを自身の演技に取り入れている。

荒川は羽生について、「チャンスを確実にものにすることができるメンタルの強さ」

を持っており、「これまでの日本男子にはいないタイプ」と評している。

プルシェンコについては自著『蒼い炎』でも綴られており、

7歳の時にテレビで見た2002年(平成14年)のソルトレイクシティ五輪での

彼の演技を見て以来、マッシュルームカットの髪型も真似するほど心酔し、

映像を何度も見ながら新しい技を覚え、ビールマンスピンを取り入れているのも、

プルシェンコのビールマンスピンを見て憧れているからだという。

一時期、体調の関係でビールマンスピンを封印していたものの、

今は再び演技に取り入れているが、

『コーチには体の負担が大きいのでもうやらない方がいい』と言われている。

一方のプルシェンコは、2009年(平成21年)のアイスショーで羽生と初対面した際、

「俺を倒したらおまえの時代だ」と言い、2012年のインタビューで、

日本のライバル・羽生について記者から質問された際、

「非常に素晴らしいスケーターで、アーティストであり、ジャンプがいい。

彼を見ていると昔の自分を思い出す。

まだ17歳と若いが、私が見る限り、彼がナンバーワンだ。」と高く評価した。

また、ソチオリンピックのインタビューでは、

「私は彼のヒーローだったかもしれないが、

今は彼が私のヒーローになっている」と語り、羽生のフリー演技終了後には、

自身のツイッター上で 「私のアイドルだ。よく頑張った。彼は天才だ」

と羽生を絶賛した事は有名である。

(村井知事<右>の紹介で、羽生選手が練習していた

『アイスリンク仙台』 の再開に尽力を尽した、

恩人・宍戸秀一さん(中)と握手をする、羽生選手。

宍戸さんは当時、宮城県職員で教育庁スポーツ

振興専門課に勤務。村井知事から「辞表を持って行動しなさい」

と特命を受け、職員らと共に経営難で閉鎖に陥ったリンク再開に向けて、

約1年をかけて各企業に協力を要請するために遁走した。

その成果が実り、今日に至る羽生選手の練習拠点の礎を創った。

正に陰の功労者でもある。)


金メダル獲得後の記者会見、日本への帰国凱旋、

そして地元凱旋の席上でも、常に地元を意識していた羽生選手。

自身も震災の被災者である立場から、

JOC(日本オリンピック委員会)からの報奨金300万円を、

「リンクの支援と被災地の復興支援に役立てたい」と

記者会見の席上でその旨を伝えた。

ソチ五輪が閉幕してから、今日で8日(3月3日時点)が経過した。

しかし羽生選手自身も3月26日に行われている、

世界選手権に向けて再び始動し始める。

そして目指すは4年後の韓国・ピョンチャン(平昌)

での連覇を見据えているのかも知れない。



■【 羽 生 結 弦( はにゅう ゆづる ) 】


( 平成6 (1994) 年12月7日生まれ )


宮城県仙台市泉区出身。仙台市立七北田小学校、

仙台市立七北田中学校、東北高等学校を経て、

早稲田大学人間科学部人間情報科学科(eスクール)在学中。

血液型はB型。名前は「弓の弦を結ぶように凛とした生き方をして欲しい」

と父親が命名した。趣味は音楽鑑賞、テレビゲーム。

プロ野球では、東北楽天ゴールデンイーグルスと、

宮城県出身ながらも幼少期からの広島東洋カープのファンであり、

憧れの選手は前田健太。好きなアーティストとしてポルノグラフィティ、

Hi-Fi CAMP(羽生の地元である仙台出身)、BUMP OF CHICKEN、

The Sketchbookなどを挙げている。

音楽をどこででも聴けるようにイヤホンに凝っていて、収集をしている。

好きな映画は時をかける少女、サマーウォーズ。




JG7MER / Ackee