1945年の春にシカゴに来てから数か月経つとそろそろ秋風が吹いてきた。シカゴの冬の厳しさを知っていたハニーボーイは、さっさと退散したが、厳冬を知らないWalterは、一人居残ることを決めた。
しかし、マックスウェル・ストリートの客足が遠のくのと並行して、稼ぎも目に見えて、少なくなった。それでも意地があったWalterは、母親くらいの年上の女の世話になりながら耐えていたが、それも11月の終わりまでだった。
というのも地元の人間が、『シカゴの本当の寒さはこれからだ。』と告げたからだ。これ以上は耐えられないとはっきり悟ったWalterが向かった先は、懐かしのヘレナだった。
ヘレナでは相変わらずキング・ビスケット・ショーが健在だったが、出演バンドのキング・ビスケット・ボーイズのメンツは変わっていた。画像は1967年撮影のキング・ビスケット・タイムの面々。中央がヒューストン・スタックハウス、左がスタックハウスの従兄のロバート・ナイトホーク、右がペック・カーティス。バスドラムの手書きの番組名が泣かせる。
番組は、週末にはバンドの面々がキングビスケット社の小麦粉を販売する店頭でリクエストに応えながら演奏するという文字どおりお化け番組だったが、ライバル製粉会社が同じ時間帯に同じスタイルのラジオ番組をぶつけてきた。これがマザーズ・ベスト・フラワー・ショーだ。
この番組はその後、ハンク・ウィリアムスなどカントリースターを多く輩出したことで一躍有名になるが、戦後直後の1946年は、まだジャンルが決まっていなかった。この番組に抜擢されたのが若きLittle Walterである。
スタックハウスによると誰よりもリクエストが多かったという。スタジオに山と積まれるハガキはおろかラブレターまがいの手紙もすべてWalter宛て。パイントップ・パーキンスがいくら懸命にピアノを叩いても、Walterのひと吹きで吹き飛ばしてしまった。
1946年春、再度シカゴに舞い戻ったWalterが組んだ相手はフロイド・ジョーンズだった。ところが、当時29歳のフロイドは、ガラス工場に仕事を持つ労働者だった為、プロになる気などさらさらなかった。
16歳になったばかりの若いWalterにはそれが全くわからない。熱い工場の中で1日9時間働いて、たった週給45ドル弱。ギグなら一晩で楽に8,9ドル稼げ、週末なら20~35ドルの稼ぎになったからだ。
『あんた、馬鹿だよ。俺はそんなことはしない。
一晩で8ドル、週末なら30ドルは堅いんだ。
なんで、そんなことやる?
首になるのが怖いのか?
そりゃ、そうなりゃ失業手当がもらえるだろうけど、
俺は、こいつで、これ一本で生き抜いてやるぜ。』
と豪語し、その言葉どおりに生きたが、
死ぬ前にはほとんど何も残らなかった。
しかし、フロイドも結局プロの道を進むことになる。※画像はしょげる?フロイド・ジョーンズ
マックスウェル・ストリートを軸にしだいにシカゴ・ブルースを支えるブルースマンが集結し始めたのもこの頃からだ。サニーランド・スリム、ハウリン・ウルフ、ロバート・Jr・ロックウッドもこの近辺に居を構え、活動を始めていた。
さて、ストリートで街行く人々の足を留めるには、どうすればいいのかおわかりだろうか?驚くばかりの雑踏に喧騒の中、多少の大声や音ではどうにもならない。この頃には楽器屋にも小さなアンプが販売されるようになり、エレキだけでなく、アコースティックギターでも大音量が出せた。
しかし、いくらアンプを通しても電気がなければ話にならない。そこで、映画『キャデラック・レコード』でも出てきたが、ストリートに並ぶ店舗や住民にいくばくかの使用料を支払い、長い長い延長コードを伸ばしに伸ばして電気を頂戴するという方法を見出した。時には二階やそれ以上の階からも延長コードを伸ばすこともあったというが、曲の途中でコンセントが抜けることも少なくなかった。
フロイドの他、Walterが知り合ったミュージシャンに憧れのジョン・リー・サニーボーイ・ウィリアムスンのバックで演奏していたレイジー・ビル・ルーカスがいた。※にこやかにほほ笑むレイジー
しかし、この時30歳だったレイジーとWalterは馬が合わなかったようで、Walterはいろんな意味を込めて、レイジー(ぐうたら)と呼んでいた。というのもレイジーがアンプのスイッチを入れ忘れるなどミスが多かったからだ。
しかし、レイジーの父親が経営するビルの一室にWalterが間借りしていた関係から、ようやくジョン・リー・サニーボーイと顔なじみになれたことは幸運だった。
さて、二度目のシカゴの最大の収穫は、ヘレナ時代の知人ジミー・ロジャースに再会したことである。6歳年の違うジミーは、まだ22歳だったが、出会ったときは赤ん坊を抱いた恋人を連れた軍隊帰りだった。
ロジャースは1945年の除隊後、家族を養うため、すぐに仕事を求めて奔走した。その時にシカゴで出会ったのが、南部から出てきたばかりのマッキンリー・モーガンフィールドだった。
マッキンリーは、46年当時31歳。ジミーよりも9歳年上の物静かな男だったが、田舎出丸出しのアコースティックギターのカントリースタイル、しかもオープンコードチューニング。その上、指だけのスライド奏法でストリートで演奏していた。
このスタイルは当時でも『骨董品』の類に入り、これを目撃した電気技師でもあったブルー・スミッティが、彼にスタンダード・チューニングを教え、シングル・ノート・ピッキングを伝授した。彼の言葉を借りればこうだ。
『マディのギターのピックアップがおかしかったんだ。
それで直してやったんだが、あいつはエレキギターを
持つには持ってたんだが、まだオープンチューニングでね。
スライド専用のバーすら使っちゃいなかった。
まるで骨董品だったよ。』
この骨董品のような南部出の男がシカゴの音楽界に入るきっかけは、音楽性でもなく、才能でもなく、実は、マッキンリーが持つ赤錆だらけの1940年もののシボレーだった。祖母の形見のシボレーはツードアだったが、それでも車を持たないミュージシャン連中にはありがたかった。ジミー・リードがこうつぶやいた。
『まっ、マディと付き合いだしたホントのところがそういうとこさ。郊外のギグになるとバスも電車もないんだ。かといってタクシーに乗ってたんじゃ割りに合わねえ。そんな時は、いつもマディを呼んだってわけさ。』
後年、このマッキンリーは、マディ・ウォ―ターズと名を変え、ブルース史にこの人ありとというほどの人物に出世するが、この頃は誰一人、彼の才能に気づかず、ただの田舎者だと思っていた。※画像はマディが所有していたものと同じシボレー40年型。
マディがいかに田舎者だったかがわかるエピソードがある。マディが初めてエレキギターというものを見聴きしたのは、シカゴのマックスウェル・ストリートで演奏するシカゴの顔ビッグ・ビル・ブルンジーだったという。さて、いよいよシカゴに集結した3人がスタジオ録音するにはもう少し間がある。
では、次回をお楽しみに。
一人出産を決め、プロスケーターとして頑張るミキティに非難囂々だけど、
頑張る彼女にエールを送ることはあっても、非難する人ってどうなのって感じ。
25歳で子供を抱えるんだよ、健気だよね。
ところで、kindle fire hdをようやく購入。
まだ手にしていないけれど、電子書籍一万冊が
読めるのだから、本当に楽しみ。
洋書や古典が読めたらいいなと思ってます。