1977年の『Eddie Taylor来日記念盤』と称するアルバムには
3つのヴァージョンがある。
1つは、来日の翌年1978年に発売されたオリジナルLP
"Eddie Taylor live in Japan”。
2つ目は、2003年にそのLPをそのままCD化したLive in Japan。
そして、最後の3つ目が2009年発売の特別エディション2枚組みの
Live in Japanである。

2009年の2枚組完全版の発売が新たにEddie Taylor人気の再燃と
再評価に繋がったと評価できるが、
では、なぜ完全版が発売されねばならなかったのだろうか?

まず思いつくのは、オリジナルLPの時間的制限である。
レコードではせいぜい40分が限度で、割愛された曲が多くあったことが想像できる。
しかし、それならば2003年にLP盤CD+未収録CDとに分けて発売すればよかったのではなかろうか?わずか6年後にわざわざ2枚組完全版を発売する必要はないように思える。

2009年の完全版を購入したファンの意見にも
『…長年愛聴してきた作品を再び丸々購入しなければならない非効率性。
未発表だけ別売りしてくれればいいのに…。』といったものが多く見受けられた。

紅花紅子のブログ-eddie2オリジナルLPとそれをCD化したLive in Japanはファンの中では愛蔵アルバムとなり、評価が高いとされているが、果たしてそうだろうか?実際に京大西部講堂に赴き、目の前でEddie Taylorを観た者には俄かには信じられない。

実際、翌年1978年に店頭に並べられたオリジナルLPを見た時の驚きは、あの場にいたという喜びと懐かしさで思わず手に取ったというものではなく、『よくあんなの出したよな~。』という半ば呆れたものだった。

1977年12月18日京大西部講堂。二日連続の西部講堂でのオープニング・アクトは、77年8・8Rock Dayの最優秀バンド花伸(元憂歌団のベース花岡憲ニの弟伸治のバンド)。この時のライブが花伸のファーストアルバムとして発売された。
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あの日、まだ中学生だった私は、Fenton Robinsonの来日を心待ちしていたが、願いは叶わず、名前しか知らないEddie Taylorのライブ会場前で、寒さをこらえながら開場を待っていた。

冬の日の入りは早く、すっかり暗くなった西部講堂前の石ころだらけの駐車場では、Fentonの来日公演を企画した、今は無きユニオン・シャッフルの元代表奥村ヒデマロ氏が『フェントンの来日嘆願の署名お願いします。』と声を涸らしていたが、署名する人の数は意外に少なく、ブルースブームの翳りを目の当たりにした気がした。

中学生にもEddie Taylorという名前は覚えやすかったが、顔すら知らず、ただJimmy Reedの横の人としかわからなかった。だが、ライブが始まれば、リードを取るのが、その人だろうからすぐにわかるだろうと高を括っていたのがそもそもの間違いだった。
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西部講堂は、花伸の若々しく、楽しいライブで、すっかり盛り上がり、今や遅しとEddieたちを待っていた。汚れてはいるが、会場内は思ったよりも広く、客入りもほぼ満杯。条件は揃った。

ところで、ブルースライブに必ずいる連中をご存知だろうか?彼らはもちろん金を払って入場しているのだが、始まる前からへべれけ状態で、ライブを聴きに来ているのか、邪魔しに来ているのかわからない。大抵単独だが、そんな連中が会場内には必ず数人いるのだ。

寂しいオッサンたちなのだろうが、本人もああ酔っていては覚えていないだろうし、本当に何しに来ているのかわからない。Eddieのライブにもそんなオッサンがいて、公演中ずっと『エディ・プレイボーイ・テイラー』と叫んでいた。アホである。もちろんそんなおっさんからは離れたが…。
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しびれを切らした観客から急かせるような歓声と口笛が鳴る中、当時のブルース公演のMCといえば、この人と言えるほど、すっかりおなじみだったヒッピーライクなデルマーク・レコードのS・トマシェフスキーが舞台袖に現われると、いよいよ観客たちのテンションはピークに達した。トマシェフスキーが『今日この日にEddie Taylorを紹介できる』喜びを語リ始めるものの、英語がわからない観客から非難ゴーゴーを浴びると、彼は、いつものことさとクールに受け流し、すぐに奥に引っ込んだ。

Eddieを知らない私は、まずは、バックバンドがインスト演奏してから、御大が出てくるものだと思い込んでいたが、意外にも4人の男たちは揃って舞台に立っていた。

奥のドラムは別として、舞台向かって右からギター、中央にベース、そして、舞台左端にもう一人のギターが横並びという今まで見たことがない布陣。なんだか嫌な気がした。インスト演奏もなく、特に、誰が突出するわけでもない配置。それでもボーカルを取るのがEddieだろうからと思っていた私に再び難題がのしかかってきた。画像はルイス・マイヤーズ

紅花紅子のブログ-eddie7つまり、歌うのは一人ではなかったのだ。ドラムも含め、ほぼ全員が順繰りに歌うという構成など聴いたことがない。まずベースが歌いだしたが、初っ端というハンデを差し引いても声が上ずり、調子外れなのは隠しようがなかった。これはEddieではないだろう、第一彼はベースなのだからと安堵するものの、次にボーカルを取り出したのが右のギタリストだった。

彼の演奏はともすれば前へ前へと出たがる派手な演奏で、歌はもとよりハープまで吹くという器用さまであった。しかも西部講堂のへぼいライトを一杯に浴び、まさに我が世の春という悦に入ったギターソロを披露する。当然観客の目は彼に惹きつけられ、華のあるステージを見せ付けた。この人がEddieなのか?画像は、デイブ・マイヤーズ。お世辞にも歌が上手いとはいえなかった。

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そして、まるでスポットライトから逃げるように半ば身体が影に隠れた左端のギタリストの番が回ってきた。その影の男は、横並びの3人の男のうち最も背が低く、最も頭が大きく、まるで漫画の三頭身キャラクターのようで、最も見栄えが悪かった。

しかも自分にライトが当たるのを拒むかのようなギタースタイルに、『なんと地味な!』と思わず声が出てしまったが、その確かなギタープレイと安定したボーカルは3人の中で秀一だった。

ひょっとして、彼がEddieなのか?そう思いかけたとき、その思いを打ち消すかのようなソロギターが割り込んできた。右のギタリストである。右のギタリストは、左のギタリストが喝采を浴びると、それが気に入らないのかアンプの音量を不協和音が出るほど上げきる始末。もちろん、自分のパートを邪魔された左のギタリストも黙ってはいない。

こちらも最大限に音量を上げ、地味な男には似合わない派手なパフォーマンスを仕掛け始めた。こうなるとライブどころではない。私がこのライブで学んだことは、いかに各々が素晴らしいミュージシャンだとしてもアンサンブルとしての構成ができていなければ、それは論評に価しないということだった。

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しかし、この音量上げ合戦をまるで高みの見物のように楽しんでいた人物がいた。ドラマーである。彼は二人のギターバトルを止めるでもなく、ただ笑っていたが、ベースだけは心配そうに見守っていた。

だが、このドラマーがいかに凄いかを知るのは、ドラムソロに入ってからだった。彼のドラムソロはそれほどリフが複雑ではないので、聴いているだけではわからないだろうが、まさに『魅せるソロ』そのものだった。

笑いながらジョークを飛ばし、歌うようにドラムを叩く、その妙技は一見の価値がある。両手に持ったスティックがまるで2枚の扇のように見える早い動きに目を見張った。このライブで最も印象に残ったのは、何かと問われれば、迷わず、後にオーディ・ペインだと知る彼のプレイと答えるだろう。
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そうこうしているうちにライブも終盤に差し掛かり、メンバー紹介になった。恥ずかしながら、Eddie Taylorが誰なのかをはっきりわかったのはこの時だった。なんと『一番地味な人がEddieだったとは…。』

そういえば、一番安定していたのは彼だった。ルイスが対抗心丸出しのプレイをする中、音量で対抗したとはいえ、最後まできっちり歌い上げ、演奏しきったのはEddieだった。横並びという配置だったが、力量では、一歩も二歩もいや、数段上だったのが、ステージでは本当に地味で、華がなかったEddieだったのだ。華という点ではルイスに軍配が上がるが、力量の点では、間違いなくEddieだった。別名Eddie"地味"Taylorと呼ばれるのも合点がいった。以上が1977年のEddie Taylor来日公演の全貌である。

実際にライブを観た者としてはアンサンブルのひどさばかりが耳に残り、決して良いライブといえるものではなかった。その後もこのことを訊かれる度に『ひどかった。』と答えるのを常としてきたが、大学に入った折、修学院のルイス・マイヤーズこと私の音楽の師匠に『あれは君が言うほど悪くない。』と言われたことがあった。彼はこの公演を観ていない。なぜ、そう言い切れるのか?と訝ると、彼は私の鼻先に例のライブ盤を取り出した。

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私はこの時初めて78年発売のオリジナルLPのLive in Japanを聴いたのだが、そのLPは私の記憶の中のものとは全くの別物だった。曲目、曲順、ありとあらゆるものがEddie中心に構成され、紛うことなく彼のコンセプトアルバムとして成立していた。さらに、Eddie以外のメンバーはおとなしくバックバンドとしての役割を果たしていたのだ。

ハウリングを起すほど音量を上げ、互いに一歩も引かないギターバトルも、バランスの悪いアンサンブルも綺麗さっぱりに消えていた。途中入る拍手や掛け声でライブ盤だとわかるが、後はまるで洗い流されたようなアルバムに仕上がっていた。

『これは一体何だ?これは私が観たものではない。』
怪訝な顔をした私に彼は言った。
『ほら、悪くないやろ?』と。

そのアルバムが何故発売されたはわからないが、これまでJimmy Reedのサイドという側面が強く、長らくリードアルバムがなかったEddieのアルバムを出してやりたいという親心が背景にあるのかもしれないが、果たしてこれで良いのだろうか?

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Eddieの来日記念盤はまさに編集の賜物である。順繰りにリードを取ったライブ本来の姿ではなく、まるでEddieのリード公演だと言わんばかりに順序を変え、フェイドアウトさせ、ギターバランスの悪さをミキシング段階で調整した結果、聴きやすくなったが、明らかに手を加えている。これを贋作とはいわないが、改竄は明らかである。

発売の際に、当然レコード会社内部から反対意見が出たと思われるが、結局押し切られた。発売されたLPの帯には、『生より良い!』というコピーが踊っていた。つまり、『エディとルイスの音バランスがひどかった生のライブよりも調整したレコードの方が良いですよ。』とレコード会社自身が改竄を認めた売り方をしていたのだ。Eddieのリードアルバムとする以上は、そのままの録音では発売できなかったのは認めるが、だからといって行き過ぎたミキシングが認められるのだろうか?

しかしながら、ライブを実際に観た人間の数は限られ、いつのまにやら改竄されたライブ盤が流布し、愛聴盤となっていく。Bad Boyは、この改竄を許したろうか?と訝りながら…。ここで、2009年に特別エディションが発売された舞台裏が見えてくる。長らくEddieの改竄されたLive in Japanに対して忸怩たる思いを持っていた人が、2009年にようやく当時の模様に近い特別エディションを世に送り出してくれたのだろう。だからこそ、2009年版は多くの人が考えているように、2003年版の重複ではないのだ。

では、なぜエディとルイスの確執が深まったのだろう?
それは、日本人側の対応のまずさが一部にあったといわれている。

ルイスとしては、エディも自分もサイドマンとしての役割が長く、レベル的には同列と考えていたが、エディのほうは、自分はジミー・リードと一緒にヨーロッパツアーにも同行し、リードアルバムこそ殆どないが、レパートリーの多さは、単なるリズム隊のマイヤーズ兄弟とは比べ物にならないという自負を持っていた。

また、R・Jr・Rockwoodとの来日経験があるルイスがエディに対して先輩風を吹かせようとしたものの、出迎えた日本人スタッフがエディのほうに集まってしまい、すっかりルイスがすねてしまったという経緯がある。日本側が上手にルイスを持ち上げれば、それで済む話がこじれにこじれて失敗し、結局、その影響がライブにまで及んでしまった。

といっても緊張感があったのはエディとルイスだけで、デイブは兄の言いなりだし、オーディは全然気にしないし、ライブとしてはひどかったが、それはそれで面白かった。来日した全員が鬼籍に入った今となっては、ルイスとエディのギターバトルなんて二度と見られやしない。おそらく本場シカゴでも見られない貴重な対決だったろうから、この話ができる私は幸せ者かもしれない。

結局、ブルースには最高のライブもあれば、最悪のライブもあり、それはそれで面白いということだ。エディの1977年のライブは、後に先にも彼にとって最初で最後の来日となった。その8年後、1985年の12月25日クリスマスにEddieは神に召された。
『Bad Boyに土下座しろ。』
合掌。