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1974年当時 South to Southのメンバーだった中西康晴(左端)
有山じゅんじ、藤井裕、正木五郎 皆若かった・・・。


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9月も下旬に入った頃、大阪道頓堀旧食い倒れ食堂跡にて

『有山じゅんじ3Days』というイベントがあった。

初日、二日目と連続して出かけたが、二日目に足を運ばせたのは、

メインホストである日本のブラインド・ブレイクこと有山じゅんじでもなく、

日本人初マラコレーベル所属すべきである上田正樹でもなく、

日本一のグルーブドラマーである正木五郎でもなく、

日本を代表するベーシスト清水興でもなく、

中西康晴だった。


この日のライブは本当に極上だった。

先ほど述べたように日本を代表するプロ中のプロが織り成すサウンドに酔いしれたわけだが、中でも中西康晴本人をこの目で見ることができたのが何よりの喜びだった。


紅花紅子のブログ-nakanishi4 彼自身も関西入りは本当に久しぶりらしく、

しかも道頓堀の旧食い倒れ食堂跡地とあっては感慨もひとしおだったのではないだろうか。ただ久々に見る中西はすっかりオッサンと化していた。まあ、1958年生まれなのだから、54歳、仕方ないか…。


キー坊(上田正樹)に、「お前、なんぼになったんや?」と訊かれ、「54です。」と照れながら答えると、キー坊が感慨深げに、「そうか、もうそないなるか。お前がサウスに入った時は16やったな。」とポツリと言っていた。


当時の写真が冒頭のものだが、16歳くらいだろうか、皆と同じように髪を伸ばしている。中西以外のメンバーも若いなー。くんちょうの当時のヘアスタイルはアフロだったように思う。


中西康晴という稀代のピアニストを知ったのはもちろんSouthだが、残念ながら、生ライブを観たことは一度もない。ただ、ラジオから流れる『ぼちぼちいこか』や、ライブアルバム『この熱い魂を伝えたいんや』、その他には『88ロックデイ』の音源、あるいは、Southの解散ライブの模様に至るまで録音していたせいか、初めて観る気がしなかった。紅花紅子のブログ-nakanishi6


中西康晴がSouth入りしたのは、中西が日本で唯一、公立で単独の音楽科を持つ京都市立京都堀川音楽高校(旧堀川高等学校)の高校生だった時のことだ。


60年代、70年代の繁華街に欠かせないのはハコバンド(通称ハコバン)といって、専属の生バンドだった。どこの店でも専属のバンドを抱え、踊れる音楽を生で聴かせ、客の取り合いをしていた。また、夏ともなれば、ビアガーデンが花盛りになり、ここでも生バンドは大活躍だった。時として素人ののど自慢大会のバックを務め、また、時には、サラリーマン相手にきわどい踊りを見せるセクシーショーのバックなど幅広いニーズに応えなければならなかった。


つまり、演奏がうまくなりたければ、ハコバンで修行するのが一番というわけだ。繁華街に行けば、どこの店でも『サックス募集』だの、『ピアノ求む』などの張り紙をしていたため、仕事には困らなかったが、反面、お金が動くため、雇い主の要求はかなり厳しかった。受けなければ、いくら演奏が上手くても払いは悪かった。しかし、こんなミュージシャン天国もやがてカラオケの登場とともに姿を消す。カラオケは日本が世界に誇る発明だが、これを機に仕事を失ったミュージシャンが大勢いた。


紅花紅子のブログ-nakanishi5 さて、そんな世界に実入りの良いアルバイト感覚で出入りしていたのが、当時堀川高校の一年生だった中西康晴である。中西は京都のビアガーデン(おそらく京都タワー辺り)でオルガンを弾いていた。


ビアガーデンの真ん中にはステージが作られ、裸同然のお姉さんが腰を優雅にくねらせるのを横目で見ながらでの演奏である。


幼い頃からピアノを習い、天性の才能を開花させていた中西は、すでにそこらのピアノの教師を凌駕するほどの腕前になっていた。おそらく高校の教師すら心の中ではなめていただろう。


そんな中西が夏のアルバイトに始めたのがビヤガーデンの仕事だが、ギャラ以上に楽しいことがたくさんあり、しだいに大人の世界の味を覚えていった。キュートな中西はダンサーのお姉さん方から可愛がられ、中には、中西の目の前でこれ見よがしに着替えをする性悪な美人姉さんまでいた。


そんな時、たまたまビアガーデンに入ってきた上田正樹の目に、いや、耳に留まったのが中西のオルガンである。決して上等とはいえない古ぼけたオルガンで、しかもドラムやギターが鳴るなか絶妙なはまり方をする音とリズムに驚いたのだ。これがSouth入りの始まりであり、業界に入る始まりでもあった。


紅花紅子のブログ-nakanishi1 この後は、もうお決まりのコースで、キー坊は中西の実家に足繁く通い、母親を説得してSouthのメンバーにするのだが、中西は結局堀川高校を中退することになる。このエピソードは、リトル・ウォルターとロバート・ジュニア・ロックウッドがまだ未成年だったルーサー・タッカーをバンドに入れるために母親を説得しに行ったことを彷彿させる。


この時、ロックウッドは、母親に「大丈夫です。息子さんを悪い道には行かせません。父親として接します。」と言い、安心させたというが、タッカーはウォルターから女遊びを教わり、博打も覚え、酒も飲んだ。キー坊も当然ながら、「大丈夫です。息子さんを預からせてください。悪い道には行かせません。」と言ったのだろうが、中西はサウスに入ってから、すぐにトランプ博打を覚え、カモにされる毎日になるとは・・・親御さんの嘆くのが目に浮かぶ。画像は現在の中西康晴(おっちゃんや…)



紅花紅子のブログ-nakanishi8 当時から中西のピアノは群を抜いていた。どんなに正木五郎と藤井裕のリズム隊のグルーブ感が凄くても、どんなにくんちょうのソリッドなギターが被ろうと、どれほど有山の飄々としたギターがからもうと、中西のピアノが埋もれることはなかった。


ある人が『中西康晴のピアノに震えた。』と表現していたが、まさにあの頃、私は中西康晴のピアノに震えたのだ。軽やかで、それでいて雨だれのような響きを持つ彼のピアノ、それは年齢などとうに超越した神聖なものだった。『中西康晴』と聴くだけで、身の内がキュッと掴まれ、甘美な思いに包まれるのは私だけだろうか。


サウス解散後、それぞれがそれぞれの道を歩む中、中西の動向だけがはっきりとはわからなかった。泉谷しげるの『家族』というアルバムに是非にと請われ、有山じゅんじと共に参加したのを最後に、中西は表舞台から姿を消した。彼は、一介のバンドメンバーではなく、スタジオミュージシャンという道を選んだのだ。


紅花紅子のブログ-nakanishi9 泉谷しげるは今でこそ役者か、コメンティターのように思われているが、彼の才能はそんなものではない。フォークの範疇に分類されているが、彼の本性は『ロック』そのものである。おそらく一般のミュージシャンの誰もが思う夢を全てやってのけた男だろう。


単身、ロスの老舗ライブハウス『トルバドール』にバンドも従えず、たった一人で乗り込み、最後は、アジア人蔑視の観客を総立ちにさせた親爺である。泉谷の『家族』は76年に発売され、今尚名盤とされているが、哀しいかな、廃盤になっている。是非、復刻させてもらいたい。


その『家族』に収録されている『野良犬』 『彼と彼女』に中西のピアノが入っている。泉谷曰く、「中西のピアノがなければ、あれほどの楽曲になっていなかったね。奴は天才だったよ、まだ17歳なのにさ。」



紅花紅子のブログ-nakanishi2 しかし、中西康晴の魅力はこれだけではない。中西は饒舌ではないが、確固とした自負があり、態度で示すことが多い。『ペダルを踏まない』ことも彼のプライドの一つである。ピアノのペダルを踏むということとは、その間、手が止まるというか、一瞬の間がどうしても出てしまう。従って、ペダルを踏まないということは、どんな早弾きにも対応できる意味なのだが、中西は、それを誰が見てもわかる方法で示す。


中西は靴をはかず、いつも草履で現場に現われる。それもビーチサンダルとか、とにかくそんなものを履いて、スタジオやステージに現れるのだ。そして、おもむろにピアノチェアに座り、胡坐をかいて演奏をする。ペダルを使わないことは一目瞭然だ。これが彼のこだわりであり、自負である。ついでながら、お腹が冷えるの防ぐために腹巻をするのだが、草履に腹巻…とくればバカボンのパパだ。この姿で現場に来るのだから、雇用主は激怒。「ふざけてんのか!」とキレつつも、腕が確かなため、結局、しぶしぶ舐めたルックスを認める破目になる。画像は今の中西。腹巻も良く似合う。



紅花紅子のブログ-nakanishi10 中西の10代は他に10代の青春とは比べ物にならないくらい濃く、速い。サウスで稼いだ金は、待ち時間のトランプ博打であっと言う間にすり、挙句、実家から持ち出しする始末。母親はかなり後悔しただろう。サラリーマンの給料をたった一日でするのだから…まさにジェットコースター並のアップダウンである。


当時の一流のスタジオ・ミュージシャンの実入りは相当良かった。特に中西ほどの腕前になると引き手あまたなのだから、普通に生活をすれば金に困ることはないのだが、何せ、16歳から始めた鉄火肌は簡単に直りそうもない。今では業界も不況でとても考えられないが、当時の超一流のミュージシャンとのセッションは、一日一本も珍しいことではなかった。ちなみに一本とは10万円ではなく、100万円のことである。


紅花紅子のブログ-nakanishi11 この最高金額を提示され、セッションに参加したものの、結局水の泡と消えた人物がいる。それが元サウスのドラマー正木五郎である。ゴローちゃんもその腕を買われ、ある人気シンガーのセッションに入ったのだが、あまりの楽曲の不出来に、思わず、「なんやコレ、ババやの~。」とつい口走ってしまったのが、たまたまマイクに拾われ、ブースにいたプロデューサー兼楽曲提供者の逆鱗に触れ、一日持たずにクビになってしまった。口は災いの元だが、ゴローちゃんらしいエピソードでもある。


さて、態度で示す中西だが、これだけではない。驚くほどの報酬を手にした彼の最大の買い物が何かご存知だろうか?それは、『ヨメはん』である。中西はわずか21歳の頃に、京都祗園の舞妓を水揚げし、ヨメはんにしたのだ。舞妓の水揚げがいかほどなのか詳しくは知らないが、マンション買える位の単位であろうことは想像がつく。中西のヨメはんは、都都逸が歌える粋なヨメはんなのだ。


余談だが、P-vineレコードから歌いまくる勝新太郎というアルバムがあるが、収録されている一部に中西のピアノが入っている。当時、中西は渡辺貞夫と勝新太郎の両方から同時にオファーがあったが、中西は、迷わず勝新を選んだ。理由は『かっこええ。』から。まあ、ナベサダとは今後もレコーディングの機会はあると思うが、勝新はきっとないだろうね。私でもこっちを選ぶな。とまあ、数々の信じられないエピソードを持つ中西康晴に数十年ぶりの時を経て会えたことを嬉しく思う。また、大阪入りをしてもらいたいものだ。最後に泉谷しげるの『家族』の中から『彼と彼女』をどうぞ。