紅花紅子のブログ-yuichi1
高橋由一 自画像 慶応2-3年ごろ(1866-67)
10月21日まで京都国立近代美術館で開催されていた
近代洋画のパイオニア『高橋由一』展の最終日に足を運びました。
最終日とあって結構な入り。
美術の教科書で日本一有名な新巻き鮭の本物が
観たかったというのが理由ですが、
彼が残した膨大な作品数に驚いたしだいでした。



紅花紅子のブログ-yuichi2 さて、会場内を一歩入ると、いきなりあの『花魁』の美女が出迎えてくれるわけだが、あの演出はいささか疑問。鑑賞者は、由一の代表作になんの心構えもなく、対面させられたわけだから、まるで昭和の一時代を一世風靡した『口裂け女』に真昼間から出会ったような気持ちになったと思う。


ムムム…シャレにならんぜよと心の中で毒づく始末。もっと鑑賞したかったが、後ろが混んでいるので諦めた。おそらく多くの来場者が後ろ髪を引かれる思いでその場を去ったのだろう。この『花魁』に関しては、もう一度場を変えて語ろうかな。


さて、近代洋画のパイオニアと呼ばれる由一だが、この人物がパイオニアと呼ばれるには、それなりの理由がある。


文政11年生まれの由一が明治維新を迎えた時、由一は実に40歳を迎えていた。人生の半分以上を江戸人で過ごした由一が洋画に憑かれたように突き進んだのは、幕末に見た西洋本の石版画(=リトグラフ)だったという。


江戸人がリトグラフを初めて見た衝撃がどれほど凄まじかったかは今では想像できない。それまでの日本の絵が所謂、二次元の平面そのものの空間把握だとすれば、西洋リトグラフのそれは、本物と見まがうほどで、江戸人由一の頭を吹っ飛ばしたのだ。


この経験を通じて、由一は直感的に『これからは洋画だ!』と天啓を受けたのだろう。それ以後、独学で洋画を学ぶ由一だったが、やがて行き詰まり、黒船来航以来、ちらほら見かけるようになった西洋人に教えを請うことを思いつく。その白羽に矢に当たったのが、英国人ワーグマンだった。


紅花紅子のブログ-wargman1ワーグマンは、文久元年(1861)にイギリスの『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』誌の特派員兼漫画家として来日し、多くの日本の風俗をスケッチし、雑誌に掲載した人物だが、やがて日本人女性と結婚し、在留外国人向けの政治風刺漫画雑誌『ジャパン・パンチ』を刊行した。画像は自画像のワーグマン。


由一を始めとして、五姓田義松、田村宗立、小林清親、狩野友信などが彼の元を訪れ、美術史における近代洋画の恩人としてワーグマンの名が挙がるが、彼自身はそんなつもりは全くない。これは断言できる。


ワーグマンは、後の明治政府が招聘したイタリア人美術教師ファンネージとは異なり、特派員として来日しているわけだから、いくら絵が描けたとしても本人は画家のつもりはなく、画家としての技量があったのは、むしろ弟のほうだった。


しかし、絵が描ける西洋人の噂を聞き及び、由一が横浜居留地で偶然出会ったのが、ワーグマンと一緒に行動を共にしていたカメラマンのF・ベアトである。気の良いベアトは、由一をワーグマンに紹介するものの、ワーグマンは英国人特有の偏屈さで、どこの馬の骨かもわからない日本の小男に絵を教えるつもりなどさらさらなかった。


紅花紅子のブログ-wargman2 画像、左がカメラマンのベアト、座っているのがワーグマン。大柄なベアトに比べて、ワーグマンは小柄だった。


洋画を教えてくれとまとわりつく由一をけんもほろろに断りながら、自宅にこもって油絵をこれみよがしに描くワーグマンをドアの鍵穴から盗み見して、技を盗んだという由一の涙ぐましいエピソードが残っている。


しかし、この努力が実り、由一はワーグマンの弟子一号になるわけだが、ワーグマンは彼を正式な弟子として認めたわけではなく、根負けして出入りを許したという感じだろう。


これに対して、まだ子供だった五姓田義松の場合は少し違う。ワーグマンは女性や子供など社会的弱者にはめっぽう優しく、義松をよく可愛がった。義松もワーグマンを慕い、ある時、依頼する絵をなかなか描かないワーグマンに激昂したベアトが短銃を取り出すという騒ぎになった際、まだ10歳だった義松が身を挺してワーグマンを守ったというエピソードが残っている。


紅花紅子のブログ-yuichi8 彼らとは違い、全く相手にされなかった者もいる。それが明治に『光線画』として一躍名を馳せた小林清親である。癖のある顔立ちのせいか清親はワーグマンに好かれず、靴で蹴られたのがもとでワーグマンに教えを請うのをやめたという。いずれにせよ好き嫌いがはっきりしていた人物だったのだろう。画像は小林清親。


ところで、近代洋画という名称が明治に限定されるのは、この時期の洋画の目標が、油絵という手法を使って、日本独自のモチーフをいかに置き換えるかが主眼だったからだろう。


その置き換えに一役買ったのが、明治前後に日本に上陸した『写真』だ。西洋石版画に衝撃を受けた以上に、江戸を引きずる日本人には相当なショックを与えたに違いない。そして、写真技術をなんとか絵画に活かせないものかとそれぞれの立場で試行錯誤した。この結果、小林清親は、光の明暗を浮世絵に採用し、文明開花の新しい浮世絵を生み出したのだろう。


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由一の『鮭』も洋画という新しい手法で、日本独自のモチーフを描ききった快作といえる。由一はただ置き換えただけではなく、『鮭』を一旦自分の中で咀嚼し、改めて『鮭』そのものを作りあげたといえるのではないだろうか。重文指定の『鮭』だけではなく、場内では他に二点の『鮭』があったが、美味という点では、別の作品のほうが良かった気がする。


この時期の高橋家の食事は、毎晩鮭だったのだろう。『鮭』を観ながら、下女の愚痴が聞こえてきた。「今夜も鮭ですか?」「もう思いつくおかずがないねえ。」「仕方ないよ、鮭ばかり描くんだから・・・。」 その夜は、ちゃんちゃん焼きだったのだろうか?


由一の大規模な回顧展を観て、膨大な数の作品を残しているのに驚いた。由一は、幕末から洋画を描いている先駆者だけあって、技術といい、年齢といい、明治政府が第一人者として推すにはうってつけの人物だった。そのおかげで明治天皇にまで絵画を献上するまでに昇りつめる。


いわば由一は、洋画界の寵児となり、当時はなかなか手に入らなかったであろう画材も惜しげもなく使える身分になったことが残された作品の数から窺い知れる。一日一善ではないが、『一日一枚』のペースで描いていたのだろう。


由一に関して、あまり語られていない一面を知ったのは、彼が広重の足跡を辿っていることだ。当時の風潮を考えれば、過去の遺物である浮世絵にオマージュを捧げることは、ある意味タブーだったと思えるが、由一はむしろ誇らしげに広重のオマージュを作品を残している。しかもこれは、フェノロサが唱えた明治15年『美術真説』で日本画をはじめとする日本古来の古美術に価値を見出しす前の話だ。


由一は武家出身なので、庶民の風俗画である浮世絵に対して偏見を持っていたはずだが、彼の広重へのオマージュは、たぶんにワーグマンの影響が大きいと思われる。ワーグマンもまた消えゆく日本の風景を数多くスケッチに残し、水彩画や油絵に残している。その中には、広重の『東海道五十三次』を辿ったもののある。由一は、ワーグマンから一般世間から蔑まれていた浮世絵の本当の価値を教えられていたのだろう。由一は西洋化にひた走る世にあって、日本の良さを知る数少ない日本人だったはずだ。これは非常に凄いことだと思う。


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もうひとつ明治のある時期だけに出現したのが、石版画(リトグラフ)だ。その代表が明治天皇の御影だが、絵画のようでもあり、写真でもあるその御影は、まさに石版画そのものだ。しかし、画像の子供のように何やらおどろおどろしいものも少なくない。というよりこのおどろ感が堪らなく良い。


なんでまたこんな変てこりんなものが流行ったかというと、やはり『写真』の影響だろう。写実を超えた写実、それが『写真』だが、明治人はなんとかこれを絵にもちこみたいと思ったのか、写真を元に石版画=リトグラフ制作に精を出した。


この異様さは、後に岸田劉生が言い放った『デロリ』感そのものではないか!デロリとは、劉生いわく『気味悪いほど生き物の感じを持った、東洋人独特のぬるりとした顔の描写』をいうわけだが、元祖デロリは、明治の石版画にある気がしてならない。


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明治に『東の由一、西の宗立』と称された田村宗立もデロリ対決にはなくてはならない人物だが、惜しいかな。由一より18歳ほど若かったせいで、ありあまる才能を世間に認められる時期を逸した不遇の天才画家である。偶然にも由一と同じ会場内で、由一とは別枠で展示してあったが、待遇にかなりの差が感じられた。


画像は田村宗立の代表作『洋童図』。このデロリ感はどうだ。先述したが、宗立は、フェノロサの日本美術擁護発言以後、一挙に洋画冬の時代を迎えた頃の画家だったため、才能がありながら洋画の仕事は減り、仕方なく南画や禅画を描いて糊口を凌ぐ有様だったという。


『洋童図』は、日本画で、しかも掛け軸仕様となっている。しかし、一体どこの誰が注文したのだろうか?しかもポーズが謎だらけだ。何故、花を持つのか、何故お馬の稽古用の鞭を持っているのか、モデルは誰かなどなど謎は深まる。


これを見て、岸田劉生にもモデルに花を一輪を持たせている多くの肖像画があるのを思い出した。何か意味があるのだろうか?とにかく宗立の『洋童図』にしろ、由一の『花魁』にせよ、劉生が指摘する前に、東洋人独特の生の描写を既に描いていたと考えられはしないだろうか。


由一、宗立以外にもデロリの道を突き進んだものは多く、当時は酷評されたという速水御舟の『京の舞妓』にもデロリの臭いがするものがある。


デロリの始まりは写真を元に石版画にしたものだろうが、物事の本質に迫ろうとするとデロリに近づくのかもしれない。昨今、再評価されているデロリの画家たちの回顧展があれば喜んで足を運ぶだろうな。あなたも私もデロリっ子。


先週の土曜からBSで『海を渡った日本美術』という特集をしています。里帰りしたボストン美術館に収蔵された数々の日本の名宝がなぜ海外流出したかを追う秀作です。ただ中谷美紀さんの小芝居はいらんかも。