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GW最終日に行ってきたのがJR山崎駅下車すぐの
大山崎山荘美術館です。
こちらは現在アサヒビールの所有となっていますが、
元は関西財界人加賀正太郎氏が1911年から1917年まで
6年を費やして完成させた別荘です。

大正時代の山荘は英国留学時代に見た炭鉱主の邸宅を参考にし、
昭和に入ってから増築した部分は贅の限りを尽くしたものになっています。
暖炉ひとつ、ステンドグラスひとつ、シャンデリアひとつ取っても、
全てヨーロッパからの輸入品で、応接室は船のキャビネットを模したり、
2階の踊り場は、社交ダンスの場と化し、まさに踊り場でした。
当時は、3階に楽団を招き、生演奏をバックにダンスに興じたそうです。

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新館入り口 光をふんだんに取り入れた安藤建築

平成に入り増築された新館部分は、
直島の地中美術館を手がけた安藤忠男氏のものです。
そこには、上掲のモネの『水蓮』が飾られていました。
本館・新館ともにその素晴らしさに堪能した一日でした。

というわけで、今回はこの印象派をいち早く日本に紹介した
最初の日本人、林忠正についてです。
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<昔、国賊、今、英雄>

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林忠正という人物は、わずか60年ほど前まで、『国賊』『売国奴』などと罵詈雑言の限りを尽くして酷評されましたが、最近では、元祖クールジャパンなどと言われ、もてはやされるようになりました。この落差は一体なんなのでしょうか?


彼の人となりを研究し、発掘し、日本における評価を正当なものにしたのが、林忠正の孫の嫁である木々康子氏です。作家でもあり、美術史研究家でもある氏が義祖父の汚名をそそぐべく、その足跡を改めて調査した結果、『国賊』ではなく、むしろ『勲章』ものの功績を残したことがようやく判明したのです。


それにしても戦前の林の評価はとんでもなかった。ある人物は、『紙屑で巨万の富を築いた男』といい、ある者は、『自国民の利益を護らない売国奴』といい、また、ある者は、『浮世絵を世界に流出させた国賊』とまでののしったのです。これらの評価は、紙屑といわれた『浮世絵』で巨万の富を築いた林への嫉妬や羨望、あるいは、浮世絵が世界的評価を受けた後に出たものでした。


確かに、林は、浮世絵という『屑』をフランスに大量に輸出し、利益を得ましたが、明治時代に一体誰が浮世絵に興味を持っていたのでしょう?政府は、むしろこれを恥じ、焼却しようとまでしていたのに…。


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<印象派の印象は?>

今でこそ『印象派、印象派』と殊に日本人は有難がりますが、評価が定まる前はどうだったかというと、浮世絵と同じでそれこそ誰も見向きもしなかったのです。日本の印象派と言われた黒田精輝ですら全く理解していませんでした。


では、パリの民衆はどうだったかというと、これまた『酷評』の嵐でした。セピア色ではなく、原色を使い、不規則性と非対称の画面構成など当時の人からすれば、これら浮世絵の影響を受けた『印象派』の絵画は『狂人』のそれそのものだったのです。


上は、文化庁の役人たちの反対を制する為、パリの林商会を閉鎖することを条件に、林がパリ万博(1900)の民間人として初の事務官長に任命された際に競売にかけられたカタログ3冊を含む復刻版(全5巻)です。


コレクション・林には、日本の浮世絵、工芸品、絵画の他に、持ち帰った西洋絵画の一部191点などが含まれています。また、上の『林忠正宛書簡・資料集』には、当時の印象派の画家たちとのやり取りも含まれています。後に、『北斎』『歌麿』を記すエドモンド・ゴンクールは、林の尽力なしでは不可能だったと彼の日記の中で述べているほどです。(ゴンクールの日記:岩波書店より)


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<林への悪意は?>

存命中の林への風当たりは相当きつかったようです。ここにそれを示す端的なエピソードを紹介します。

『1900年パリ万博要人として派遣されていた社会主義者の酒井雄三郎がホテルの窓から墜落した事件があった。これについて、林が殺し屋を雇って殺害したという根も葉もないウワさが立てられ、日本の各新聞もこぞって探偵小説なみの記事に仕立てるという徹底したヒールぶりだった。』(木々康子著より)


この悪意に満ちた林への徹底した攻撃は、フランス政府から1894年(明治27年)『教育文化功労賞2級』、1900年(明治33年)『教育文化功労賞1級』 『レジオン・ドヌール3等賞』を授与され、仏知識人たちから尊敬と敬意をもって扱われている林への嫉妬に他ならないのです。木々氏によると、亡くなった酒井は、失恋の末の投身自殺だそうですが、こういったことすらも中傷のタネになるほど林は、他の日本人から妬まれていたのです。


こういった中傷・誹謗は、後の藤田にも浴びせられます。異国で成功した日本人を喜ぶどころか、なんとかして賤しめようとする、成功しなかった日本人の嫉妬心がそうさせたのです。画像はミネルヴァ書房2009年


<起立工商会社>

しかし、林は元から日本美術を世界に紹介しようという意図があったわけではありません。偶然の産物か、運命のイタズラか、1870年、忠正17歳の折に、従兄の林太仲の養子になり、長崎から林に姓を変え、翌年、成績優秀なため大学南校(開成から今の東大へ)に通います。仏語が堪能だった林は、卒業を目前に控えながらも、1878年25歳で大学を中退し、パリ万博に参加する官製貿易商社『起立工商会社』の通訳として渡仏します。下は起立工商会社のマーク


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当時は、ただの通訳ですが、すでにパリでの日本ブームは、ウィーン万博から始まっていて、日本の工芸品、浮世絵などは、まさに飛ぶように売れていた時でした。ジャポニズム・ブームを影ながら支えたのは、林と起立工商会社の上司で工芸家の目利き若井兼三郎でした。


林は、若井から薫陶を受け、得意の仏語を駆使し、ジャポニズムに沸く後の印象派となる若い画家たちの質問に答えたのです。これはかなり大きなことです。仏人の疑問をなんなく解き明かす奇跡の日本人がやってきたのですから。さらに、嫌な顔ひとつせず、丁寧な応対と誠意ある人柄で林は、多くの仏人と友情を結びます。


<美術への関心>
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パリ博覧会終了後もパリに留まった林は、1880年以降もその卓越した知識を買われ、仏美術新聞主筆のルイ・ゴンスに請われて、ゴンスの『日本美術全2巻』の刊行と『日本美術回顧展』の手伝いをするようになります。ゴンスの著作は林なくしては完成しなかったでしょう。


この仕事は林にとっても転機になります。というのは、林自身も日本の美術を俯瞰的に見つめる良い経験になったからです。彼自身が理解しなくては仏人のゴンスに解説できなかったのです。


右がルイ・ゴンス著『日本美術』の表紙。パリ万博以後、林以外にもジャポニズムブームをあてこんだ日本人商社がたくさんあったが、林ほど仏人の好みを理解したものはなく、1886年頃になると、他の日本人商社は次々と閉鎖に追い込まれます。林いわく、『彼らは欧州人が何を求め、何を好むかを理解していなかったのだ。』そうです。


<浮世絵の輸出>
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そんな林が浮世絵の販売に本格的に乗り出すのは、1989年(明治22年)頃でした。そろそろ日本の工芸品人気に翳りが見え始めた頃、欧州人が夢中になって収集していた浮世絵に目を留めるのでした。実は、日本の美術を本格的に学んだ林にしても、つい最近まで出回っていた庶民の安価な読み物にはあまり重きを置いていなかったのです。


今で言えば、『漫画』ですから、教育のあるインテリ層が手に取ることはなく、むしろ卑しく恥ずべきものとされていました。ただ、欧州に出回っていた浮世絵は、1860~70年頃で絶頂期のものではありませんでした。そこで、林は芸術性の高い最高級品を求め、自分はパリにいたまま日本に本店を構え、良質の浮世絵をパリに送らせました。10年後の自身がパリ万博の官長になった時には、実に19万枚もの錦絵、浮世絵が海を渡ったのです。
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上は、林が扱ったことを示す蔵書印ですが、これが『真正』、『最高級品』であることを示しました。林によって欧州の美術館に収められた浮世絵、錦絵は10数万枚にものぼります。美術館にあることで保存状態も保証されているのです。


もし、林が持ち出さなければ、廃品回収よろしく最後は風呂の焚きものになっていたことでしょう。林の死後、里帰りした浮世絵がべらぼうな高値になっていたのを目の当たりにした日本人は、口汚く林を罵りました。『浮世絵を海外に流失させた国賊』と呼んだのです。


もし海外に流失させなければ、浮世絵そのものが完全になくなっていたかもしれません。いや海外に出すことで、欧州はおろか、アメリカにも浮世絵は知られることになり、全体で50万枚ほどの浮世絵が世界に運ばれ、誰もが知る芸術品としての評価が定まったのです。国賊どころか功労者ではありませんか。


また、名品中の名品は一切売らず、日本のために残したことも加えておきましょう。やはり日本という国を思っての行動だったのです。


『日本人が日本人を評価しない』という傾向は今も続いています。。村上隆は今でこそムラカミ・タカシですが、ちょっと前まで日本では、物凄く酷評されていました。ところが、海外で評価を受け、まるで手のひらを返すようにもてはやされるようになったのです。全く節操がないというか…。


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林は、日本人のこのような傾向をこう評しています。

『日本人はコレクターに似ている。つまりガラスケースを持っていて、その中にふさわしい完璧なものしか欲しがらない。だが、そうかといって魅かれる理由そのものは詮索しないコレクターなのだ。』(『ゴンクールの日記』より)


意味することは、ガラスケース=定説にふさわしいものだけを欲しがる。といって、それが好きかというとそうでもない。ただ飾るために欲しがるということですね。


画像の”Hokusa”iと”Utamaro”は、エドモンド・ゴンクール著の2作品です。これも林なくして存在しえなかった美術本です。これにより北斎、歌麿はそれだけで世界のアーティストの一人になったのです。


ちなみに今でも日本といえば、『フジヤマ』『ゲイシャ』という外国人の方がいますが、その言葉の発生は、ゴンクールが紹介した北斎の『富嶽三十六景』の『フジヤマ』であり、歌麿描くところの美人画を『ゲイシャ』と呼んだのが始まりなのです。明治からの言葉なんですね。


<印象派との絆>

パリ在住中、林は浮世絵収集の翌年1890年頃から印象派のコレクションにも着手しました。お金のなかった印象派の画家たちは浮世絵コレクションを購入すると、代金かわりに自分の作品を置いていったのでした。1870年代は、『狂人の絵』とされた印象派も20年経た頃にはしだいに受けいられるようになり、それなりの評価を得ていたのです。画像中央がゴンス


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そんな作品が相当数集まり、林は祖国日本の若いアーティストたちのために持ち帰ったのですが、あまりに最先端すぎた絵画が日本で評価されることはありませんでした。ようやく西洋絵画に目覚めた明治の画壇は、印象派ではなくローマン・グレコ様式という往年の絵画を模倣するのが精一杯だったからです。林は早すぎたのです。


残念ながら、林は、苦心して収集した印象派のコレクションを自分の美術館に所蔵するつもりでしたが、病に倒れた彼の遺志を継ぐ者もなく、1913年、アメリカで競売に出され、散逸してしまいます。林から印象派を伝授された黒田精輝も林の遺志を黙殺します。


もし、今あればどれほどのものになっていたでしょうか。存命中、日仏の友情と芸術の架け橋として奔走した林でしたが、日本人には理解されることはなく、悪評ばかりだったのは残念なことです。


<清貧の林忠正>


紅花紅子のブログ-rinchu8 一時は、浮世絵で巨万の富を築いたとも言われた林ですが、1900年のパリ万博で民間初の官長に任じられることで、しだいに困窮していきます。というのは、官長になる条件として万博後に美術商を廃業することが一つ、もう一つは、契約期間(準備期間も含めて)3年間というもの報酬を受け取らなかったこと、さらに、パリ博に没頭する間、店を任せた末弟が病死したこともあり、林は仏政府から勲章を授与された後、1905年に帰国、翌年業半ばで病死します。開成学校(現東大)時代の林忠正(前列右端)


永らく汚名を着せられていた林でしたが、1980年に入って相次いで林研究の書籍が発表されてから、ようやく名誉回復の機会を得ました。それもこれも義祖父の真の姿を探ろうと奮闘した木々康子氏の尽力なくしてはありえなかったことです。大山崎山荘美術館の地中美術館のモネの『睡蓮』を眺めていると、パリ在住の林が目にしたろうかとふと思いました。


輸出品の工芸品の包み紙に浮世絵が使われたことで、ヨーロッパ人の目に留まり、やがて日本美術=浮世絵にまでなります。そして、浮世絵は印象派やアールヌーボ、世紀末芸術と欧州のアートを一変させる原動力になっていくのです。林忠正という人物がいたからこそ日本美術は誤解されることなく正当に評価されたのだと今さらながら思うのです。


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<最後に>

1890年代、俗に世紀末と言われた時代に、いち早く『印象派』の芸術的価値を見出した唯一の日本人が林忠正ですが、さて、まだ一度も観たことも聴いたこともないものを見て、人間はどう反応するのでしょうか?

①拒否反応 ②絶賛 ③無反応=どうしてよいかわからない

この3つに分けられます。


大抵の人間は、まず拒否します。それが最も自然な反応です。なぜなら初めて触れるものには恐怖心があるからですが、そんな中一部には好意的に受け入れようという者もいます。これはかなり勇気のいる行動です。自分の内なる声に耳を傾け、何故魅かれるのか、何故好意を持つのかを真摯に咀嚼し、かつ、周囲の反対意見にも果敢に挑む強い意思が必要になります。


どうしてよいかわからない者は、結局世間の意見に従います。すなわち、世間が悪といえば、そちらに回り、善といえばそちらに回る。これが一般大衆というものなのでしょう。


『わからない』にどう対応するかで人間の器というものが計れるような気もします。林は、強い意思を持ってコレクションを持ち帰りますが、周囲の悪意に満ちた声の中、病床に伏し、そのまま帰らぬ人になりました。


『新しいもの』『わからないもの』に接した時、常に内なる声に耳を傾け、己の感性に忠実でありたいものです。世間がどういおうと左右されない強い意思を林の人生に見ました。これを機会に木々康子氏の著作に触れていただくと幸いです。上は筑摩書房1987年