紅花紅子のブログ-kusama3
国立国際美術館 草間彌生展

先日、4月8日まさに最終日の『草間彌生展』に出かけた。
その前の週には森之宮のギャラリー&ゲストハウスCalpe Diemにも
お邪魔し、まさに草間ワールドを堪能した二週間だった。

しかしながら、展覧会そのものは、1月7日から4月8日と長丁場だったため、
3月に入ってから急に勢いづいた感じだ。
と感想をいう自分からして
2月までは、まだ先があるから暖かくなってから行こうと
思っていたのだから世間様と同じかな。

さて、今回の草間彌生の『永遠の永遠の永遠』展だが、
過去から現在までの集大成ものではなく、
まさに今現在の草間を観る展覧会だった。

あの広い美術館を埋め尽くされた100点もの作品は、
2011年に草間が描いたものである。
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その世界はまさに草間の心象風景が展開されていたが、
それらを鑑賞しながら、
気恥ずかしさを覚えたのは私だけだろうか?

そこには草間のむきだしが転がっていた。
何の体裁も、てらいも、まとめることも、研磨することもなく
ただポンと投げ出された剥きだしの草間を
どう受け止めればいいのか。
草間のココロをそのまま観てもいいのか?
館内は草間の胎内を巡る旅と化した。
まるで『ミクロの決死圏』のようだ。

100点もの裸の草間が叫ぶ。
『なんとかしてよ!』
『ここにいたくないってば!』
『私はここよ!』

時には、いらだつ草間が、
時には、子供の草間が、
時には、おだやかな草間が
あちらこちらで乱舞する。

たくさんの小さな草間が観る者を囲む。
それは、まるでガリバー旅行記のようだ。
ここまで来たら、もう抵抗するのはよそう。
意を決して小さな草間に誘われることにした。

幼い頃から思うようにならない『精神』と格闘せねばならなかった草間にとって、
描くことは、食べること、呼吸することと同義語なのだから。

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草間を見て、思い出すのがムンクだ。
ムンクもまた草間と同じく精神を病み、
それが故に『芸術』を生み出した。

ところが、ムンクは自ら治療に積極的だったことから
40代に入ってから病から解放される。
これ以後、眠れぬ夜を過ごすことも、闇の魔手に怯えることも
幻聴や幻覚に襲われることもなくなった。
しかし、皮肉なことに、『健全』と引き換えに『芸術』を失い、
ムンクは、過去の名声にすがりつく凡庸な画家になりさがる。

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もちろん草間はムンクではない。
事実、草間は『精神病院』に
現在入院しながら作品を描き続けている。

思いのままにならぬ精神を飼いならさず、
上手に付き合うことを選んだ草間がアーティストとして生き残り、
『健全』を選んだムンクが凡庸と化す。
凡庸であることを否定しつつも
迷いに揺れた一時期の岡本太郎に比べ、草間には微塵の揺れも感じない。

芸術を生み出す精神は『健全』ではない。
『不健全』だからこそ、満たされないからこそ、生み出されるもの、
それこそが芸術ではないのか。

何を表現しているのかさっぱりわからなくても
何かしらもの凄いエネルギーを放出するものがあれば、
それは、良い作品なのだ。
言い換えれば、芸術作品とは
『エネルギーの転化』なのではないだろうか…
などと草間の胎内作品をめぐりながら、
そんなことを考えていた。

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また、草間を鑑賞しながら
『アウトサイダー芸術』という言葉も頭に浮かんだ。
一般には、精神障害者や知的障害者が描く作品をさすが、
ならば、草間もムンクも、一人で建築物を作り続けた
元郵便配達人のシュヴァルも、
アクション・ペインティングのポロックも
アウトサイダーではないのか。

この言葉には、健全な精神を持つ『凡人』が
不健全な精神が生み出した『非凡』な芸術を評価し、
差別化するという珍妙な驕りすら感じる。

さて、『草間彌生』という芸術が花開いたのは、
資産家だったことと、彼女の主治医だった精神科医西丸四方氏の力が大きい。
そうでなければ、この才能は埋没してしまったことだろう。

西丸博士が23歳で最初の個展を開いた草間の非凡な能力に感銘し、
次々と彼女の生涯を左右するにいたる人々を紹介したことで、
28歳で渡米し、現代芸術家として現在に至る。

『草間彌生』
という芸術は幸福である。