旦那さんは勝手に治っていった。~学んだのは家族としての態度~
なんだか本音シリーズみたいになってますが。そしてまた長文ですが。
プロフィールでは、私が旦那さんのうつを治したように読めるかも、ですが。
真実は違う、と思っています。
彼は、勝手に治っていきました。
西洋薬で。
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彼は、昏倒、という状態から、うつ病と認定されました。
職場から連絡を受けて、私が病院へ行ったら、彼は意識がなかった。
そして、そこから気が付いて、家族がそばにいるなら、という条件で、
入院を回避して、私と二人で暮らす部屋に帰った。
意識朦朧とした彼を、車いすに乗せて、もうとっくに外来の受付が終わって
誰もいない病院のロビーを歩いた。
その光景は、今も覚えています。
彼はどうなるのか。そして、私は、どうなるのか。
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ずっと、彼はうつ病になる性格じゃない、と思ってきました。
どちらかというと、生真面目な私の方が、危ない、と思ってきた。
だから、本当に不思議だった。
でも、彼の職場での置かれた状況とかが分かるにつれて、
あぁ、本当に誰でもうつになるんだな、と思いました。
性格じゃない。置かれた状況だ。
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で、私は彼にとって治療者であったかというと、全然、でした。
むしろ、私が疑問に思ってきたことを問い詰めて、気絶させたこともあるし。
(気絶ですよ、気絶)
でも当時、私はそれでもいい、と思っていました。
うつの友人の助言で、私が倒れないことを最優先にしなさい、
それが彼のためでもある、と強く言われていたからです。
友人たちには、本当に感謝しかありません。
私たち夫婦が共倒れにならなかったのは、彼女たちのネットワークのおかげです。
「あなた、とても頭がいいし、仕事もできるわよね。
だからきっと、職場の人に彼の病状を報告に行くときも、
いついつまでに治ります、とか見通しを言ったりするでしょう?
病気、ってのは、違うの。なんにも分からないの。見通しなんて立たないの。
だから、分からないんです、困ってるんです、ってただ本当のことだけを言いなさい。
責任なんて負わなくていいから。」
今でも時折思い出す言葉です。
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私は、いつだってちゃんとしてた。
ビジョンを語り、目標を語り、それを実現してきた。
周囲の人の期待を背負い、「男に生まれてたら良かったのに。」とずっと言われてきた。
責任感の塊だった。
旦那さんが倒れた翌日、実家の母から、電話がかかってきた。
「どういうことなの!!どうなるの!!あなたはどうするの!!」
そんなこと、私にもわからない!!
初めて母に対して爆発した瞬間だった。
***
当時、長野に住んでいた弟が、母と私の元へ、大量のFAXを送ってくれました。
うつ専門病院のリストです。
そして、私に言いました。
「お母さん、パニックやろ。
だから、これは、お母さんが安心するためのリストやで、って言っといた。
お母さんをなだめるのは僕がやるから。お姉ちゃんは、旦那さんのことに集中して。」
初めて(ゴメン)、弟を頼もしく思った瞬間でした。
***
誰かがうつになったとき、家族の方は、パニックになると思います。
そして、その嵐の中で、私が、僕が、しっかりしなきゃ、と思うはずです。
でも、怖いけど、その気持ちを手放してください。
病気の家族に対する責任なんて、負わなくていい。
だって、家族だって当事者なんですから。
だから、唯一のアドバイスは、もし付き添いで行ったら、
病院の先生が話すことと、事前に先生に聞きたいことを、ノートに書くことだけ。
お話しを聞いただけだと、ぼーっとしてて、後で思い出せないことが出てくるから。
難しい専門用語も出るかもしれないし。
そして、診察室に入って先生の前に座ったとたん、聞こうと思ってたことが、吹き飛ぶから。
***
患者の家族の方に、治療者である私がすることは、
家族の方のカラダの疲れを取り、お話しを聞くことだけ。批判もしない、反論もしない。
でも、それは、私が患者の家族であったときに、一番欲しかったこと。
そして、いろいろと世間では取沙汰されていますが、
西洋薬に関しては、基本的に反対しません。
東洋医学を志す鍼灸師としては、変?
でも。
もう周囲からいっぱい言われてるでしょう?
そんなにたくさん薬飲んで大丈夫?西洋薬ってよくないって聞くよ?
と思ったら、民間療法なんて大丈夫?ちゃんと治した方がいいんじゃないの?
その声に疲れる、ってあると思うんです。
だから。
どちらも有り。迷ってもいい。
私ががんの父を見送って、うつの旦那さんを支えて、思ったこと。
直接、うつでは死なない。判断が遅くても、命がなくなることはない。
…なんですよ。
人間、死ななかったら、チャンスはあるんです。
今、迷っているあなたに会いたいです。