$雑食食堂

★★★★☆

2011年・第61回ベルリン国際映画祭で最高賞の金熊賞と男優、女優陣のアンサンブルに対して銀熊賞(男優賞・女優賞)が授与され、ベルリン映画祭史上初の作品および男優、女優賞の3冠を達成したイラン映画。第84回米アカデミー賞でもイラン映画として初の外国語映画賞を受賞したほか、脚本賞にもノミネートされた。離婚の危機を迎えた夫婦を軸に、両親をつなぎとめようとする娘や、彼らの問題に巻き込まれてしまうもうひとつの家族の物語が絡み合い、複雑な人間心理を描き出していく。監督は「彼女が消えた浜辺」(09)でもベルリン国際映画祭の銀熊賞(監督賞)を受賞したイランの新鋭アスガー・ファルハディ。(http://eiga.com/movie/57557/より)

いつも引用している作品紹介の文を読んでみると、なんとアカデミー外国映画賞を獲っていた!!映画館でかかる予告に頻繁に出ていたので「面白そうだなぁ~」とフラッと出向いたら渋谷の火曜日の最終回は満席だったので皆こんな都内で1館しかやっていないような映画の情報をどこで手にするんだと思ったらアカデミー賞作品だったからか。
しかし賞関係なく見ごたえのある映画だった。逆に賞獲得などを知ってしまうと変にバイアスがかかって素直に鑑賞できなかったと思うので今回は自分の情弱具合に感謝したい。

Twitterでもチョロッと呟いたが「イラン版の『ゆれる』」と言っても良い作品で、登場人物の少しの行動(の証言)が、今後の人生を左右しかねない緊迫感に包まれた、社会派サスペンス風の人間ドラマだ。

今にもかつてのイラクのように戦火に巻き込まれかねない社会情勢のイランを不安に思い、家族ともども外国で暮らす手続きをする妻シミンと、アルツハイマーを患った父親を見捨てられない主人公である夫ナデルとの裁判所(?)での口論から物語は始まる。(画像)
イラクという特殊な情勢の国であるからこそ成り立つ設定だが、何らかのしがらみによって行動に起こせないのをじれったく感じるシチュエーションは万国共通の感情だ。「11歳になる娘の将来」と「一人では生活困難な父親の面倒」と言うどちらも比べられない程大切な生活の重りが、一家の大黒柱である彼の方にのしかかる。一方で「(海外居住をしないと言う事は)自分の娘の将来が心配ではないのか?」と計る事の出来ない天秤を差し出し感情的に捲し立てては離婚を迫る身勝手な妻。

少し周りを見渡せばそんな実直な夫と論理的な思考が出来ない妻と言う図式は、案外日本でも見受けられるものではないだろうか。

「互いの意見の不一致」と言う事でひとまず別居することになる夫婦だが、ナデルが出勤している日中は当然ながら誰も父親の世話は出来ない。と言う事でヘルパーをパートとして雇うことになるのだが、この女性ヘルパーが引き越す事件が一連の悲劇の始まりでもある。

ヘルパーであるラジエーは実は19週目になる妊婦で、夫が職を失ったばかりの下流家庭の女性だ。
シミンの親戚からの紹介と言う事もあってあっさり採用は決まるが、折角ありつけた職を失いたくないのでナデルには妊婦である事を明言していない。
当然ながら予期せぬ体調不良を起こしてしまう事もあり、世話をする老人は日中昼寝をしている。
そんな訳で魔が差してしまい、老人の手をベッドから動けない様縛りつけ、外出してしまってから事件が起こる。

気を失って危うく死にかけた父親の姿をナデルは発見し、激怒する。しまいにはラジエーが家の金を盗んだとまで言いながら弁明する彼女を手荒に追い出す。

その後ラジエーは病院に行き、お腹の赤ん坊が死産している事をナデルは知る。

妊娠して4週間経つと殺人罪が適用されるイランの法律で、ナデルは殺人罪の容疑者としてラジエー側から起訴される。手荒に追い出したものの流産させるような暴力をふるった記憶のないナデルは真っ向から否定し、逆にその前の事件を父親への虐待として起訴する泥沼展開になる。
職を失った矢先に子供も失ったラジエーの夫、ホジャットはナデルの娘の学校へ出向き「こいつの父親は俺の子を殺した!」などと喚いたり、裁判中も煽情的な事を言い散らかしナデルを挑発したりと傍若無人ぷりを発揮し、シミンも娘に危害が及ぶのではないかと脅える始末。(シミン自身も初見の時言い争いに巻き込まれて顔に怪我をしている)
しかし罪を認めるわけにもいかないナデルは妻が持ちかける示談にも首肯しない。真っ向から裁判で戦おうとする姿勢が向こうの感情を逆なでする。

この裁判での争点はざっくり言ってしまえば以下の2点だ。
●ナデルはラジエーが妊婦であると知っていたのか?(妊婦と知っていながら彼女を突き飛ばし、流産させたのだとしたら罪は相当重くなる)→ナデルは「知らなかった」と主張。
●ラジエーの流産の理由はナデルが突き飛ばしたからなのだろうか?(そうでは無かったらこの裁判自体が無意味になる)→ラジエーは当然ながら「そうだ」と主張。

この2つの争点の真実を探るのが後半のストーリーになるのだが、ここからも実に各登場人物の心の運び方が上手い。

ナデルの娘であるテルメーが、11歳にしては大変聡明で、先述した不名誉な行為に遭っても公正な目で裁判の成り行きを見守る。
勉強中に父親にある問いかけをするシーンはとても見応えがある。

そして宗教の問題がこの映画では大きく関わってくる。
ラジエーがナデル父の世話中に異性の排泄物を処理しても良いのかをイスラム教の聖職者に問い合わせるシーンがある。
本作の監督は「世界の人よりもイラン国内の人に見てもらいたかった」と言及しているようにこれはイスラム教あるあるにして、平均寿命が70歳になり他人の手による介護が必須となりつつあるイランで「親族以外の異性(もちろん排泄物も)に触れる事は不浄である」と言う戒律に従い続ける事は如何なものかと言う政府、国への痛烈な批判なのだろう。
そして同時に、イランから遠く離れた国で、イランに少なからず偏見を抱いて過ごす僕達には宗教が生活の一部になる事で生じる弊害を目の当たりにすると同時に、この国が我が国の一般的な感覚で生活している事実にも気が付く。

イスラム教を信じる国では勝手に男尊女卑がまかり通っていると思っていたがそうであれば序盤の離婚調停では無駄口を叩かない夫がヒステリックに怒る妻を見過ごすわけがないし、この作品に出てくる女性は誰もが活発的で言いたい事はハッキリ言う人が多い。社会問題になる程離婚の数が増えており、何より女性の権利拡大は革命によってイスラム政権が教育を普及させた事にほかならないらしい。そう言った権利拡大で女性の高学歴化が進んでいて離婚時の慰謝料を男性側が払いきれなくなるケースも多いのだとか。

この事実を知っている日本人はおそらくほとんどいないだろう。
コーランに手を置くと真実しか口にしてはいけないだの、天罰が下るかどうかを聖職者に一々問い合わせるだの、無宗教の人間からすれば面倒事が多いように見えるが、この信仰心が本作では事件解決へのカギになっている。ネタバレになるので詳しくは言えないが、全ての真実が明るみに出た時の人間のちょっとした誤魔化しや嘘が取り返しのつかない事になってしまう事をひたすらドキュメンタリータッチで映し出すカメラが凄まじい。

タイトルである『別離』が導き出す結果を待つ夫婦を撮りっぱなしにしながら流れるエンドロールで、初めて音楽が流れる。まるで観客に「この作品はフィクションである」ことを強調するように。
劇中ではリアリティ溢れる人間描写と脚本、カメラワークで徹底的に観客にフィクションである事を排する。

勿論劇中にBGMは流れない。現実世界では場面ごとに都合よく音楽が流れてくることなどないのだから。