「21歳ですか?」
「そう」
「勇敢だな」
「そうかしら。そのときはそれがいちばんいい生き方だって思えたんだから」
「21歳なんて、 ぼくなんか大学でくすぶっていただけだ。その後も似たようなものだけど」
「でも、あなたはサーフィンをみつけた」
「たしかにね」
「サーフィンに出会えたら、それでその人生はもう半分は成功なのよ」
「たしかに」
----カイマナヒラの家 池澤夏樹
小野寺愛、35歳。
波乗りで、船乗りです。
サーフィンに出会ったので、すでに人生は半分成功しています。
ここから、「長い!」とツッコミが入りそうな自己紹介をします。
お時間のあるときに気がむいた場合だけ、読んでください。
* * *
1978年、横浜で生まれました。
家は、何歳になってもラブラブの両親と、4つ年下の妹、7つ年下の弟の、5人家族です。
教育方針は、愛情たっぷりの放任主義。なにかをしろとかするなとか、滅多に言われない家でした。
小学校5・6年生をアメリカ・コネチカット州で過ごし、中学校は日本のふつうの横浜市立の中学校に進学しました。2年連続で生徒会副会長だった私は、生徒会役員のくせにスカートが短いとか、彼氏の男物のブレザーを着ているとか、学校の帰りに大判焼き屋に寄っていたとか、そういう理由で上級生に嫌われました。
上履きに画鋲が入っていたり、音楽室や女子トイレに「小野寺ナマイキ」とか落書きを書かれたり。
気にしないフリをして、同級生の仲良したちと一緒に上級生にケンカを売り返していたけれど、実はそのたびに悲しかったし、「日本社会」に対して少なからずカルチャーショックを受けていました。
その反動で「海外」的なものに憧れ、校風が自由で国際的とされていた私立の高校に進学しました。時代は「アメカジ」まっただ中。お買い物大好き、ハリウッド映画大好き、ニューヨークやパリのセレブ大好きという感じで、将来は英語を使って仕事ができればなんでもいいと思っていたし、仕事でたくさん旅をしたいと思っていました。だから、その頃の夢は、たとえばファッション雑誌のエディターになることでした。
あれ?なんか、ちょっと、違うかも。
そう気づいたのは、大学に入って、海に出会ってからです。
大学時代はウィンドサーフィンに夢中でした。
まるで運命で決まっていたかのようにスコーンと、海のある生活にはまりました。
風が吹いている日は、迷わず、大学ではなく材木座の海にむかう毎日です。鎌倉に流れるゆっくりした空気が好きで、ことばも在りかたも、なにも飾らない海の仲間が大好きでした。美白ブーム全盛期にも、冬でも真っ黒に焼けたままの自分が誇らしい気分でした。
海の風を感じるのも、太陽をあびるのも、心のムダを全部洗ってくれるような気がしていました。
テレビや雑誌の中で起こっていることや、町の忙しい時間の中で感じることは、全部すごく小さく思えました。
空や海が青い理由、人の心のやわらかさなど、 「本当に大切なこと」 をはじめて真剣に考えるようになりました。
完全に海に恋をしていました。
全国大会を目指して練習に励み、全日本の学生ボードセイリング連盟で女子委員長をつとめて。
そのくらい、海ひとすじに4年間を過ごしました。
perfect mellow surf in the morning - fukushima, 2006
私は、(大学院に行ったわけではないのに)大学で6年という長い間を過ごしています。
最初の4年間が海ばっかりで、そのあと旅にハマってしまったのだから、当然の確信犯でした。
学生4年目、同級生たちはそろそろ就職の内定をもらっている頃に、カリフォルニアのサンディエゴに留学。ジャーナリストになりたいと思い込んでいたので、専攻はコミュニケーションとジャーナリズムです。それなのに、世界中から集まった留学生の友達仲間の中で、他の国で起こっていることも、日本のことさえも実はほとんど知らない自分の無知を知りました。
それで、学生5年目に、バックパックで旅をしました。
すでに数ヶ月間ひとりで旅をしていた当時の彼氏(今は旦那さん)の大悟に便乗した、4ヶ月の旅です。イタリアで待ち合わせして、フェリーでギリシアへ、クレタ島でキャンプしたあとでトルコからイスラエル、イスラエルからエジプトまでを陸路で移動して… と地中海沿岸を動いて、そのあと、東南アジアもビルマ以外はくまなく歩きました。
このときの旅で、あらためてきちんと、世界が広いことをからだで認識しました。いわゆる「先進国」にしか住んだことがなかった自分の、井の中の蛙っぷりを思い知らされました。
学生6年目、最後の年。
まだ旅をし足りなくて、ピースボートの地球一周の船旅に参加しました。
ピースボートとの出会いは、海や大悟との出会いに次ぐ、人生の大事件でした。
ピースボートに乗って初めて、紛争地に友達ができました。
私と同じ年のパレスチナ人のラミと、2つ年下のイスラエル人のケレン。
ふたりとも、生まれたときから今もずっと、自分の住む土地で紛争が続いています。
船に乗ってしばらくは故郷・パレスチナの情勢が気になって船内生活を楽しむ気分になれなかったラミが、ある夜、ふっきれたように終始笑顔でした。その夜のラミのことばは、きっと一生忘れません。
「考えてみたら、俺は生まれてから今までに、大人が『楽しむ』ために努力しているのを見たことがなかった。結婚式以外ではね。夜になっても攻撃を恐れて電気を消すことなく、みんなで楽しい時間を過ごす。平和って、そういうことなんだな」
だから自分はピースボートで「平和」を覚えて帰るんだ、とラミは言いました。
乗船初日、ケレンと握手することさえ拒んだラミは、1ヶ月の船旅を経てすっかり仲良しになっていました。
「戦争しているのは、政府と政府なんだ。人と人じゃない。」
ラミのことばに、ハッとしました。
彼らの発見は、そのまま私の発見でした。
紛争を、初めて自分の問題として考えるようになりました。
rami and keren onboard - indian ocean, 2001
南アフリカ、ケープタウンの家族の家にホームステイしました。
成人人口の4人に1人がHIV/AIDSとともに生きている土地です。
白人の住むプールつきの高級住宅地から車で20分も行くと、トイレもない家々が並ぶ場所もあります。アパルトヘイトが終わっても、「旧黒人居住区」はなくなりません。貧困も、不公正な貿易のルールも終わりません。
勉強してみると、その貧困は、黒人である彼らのせいではありませんでした。
経済のグローバリゼーションが生み出す構造的な貧困に、自分の住んでいる「北」の先進国社会がどれだけ深く関わっているかを知りました。
ホームステイ先の一家は、家族4人のアカペラで、国家でもある「コシシケレリ・アフリカ(アフリカに祝福を)」の熱唱で私を歓迎してくれました。
仲良くなった9歳の女の子が、ふと言いました。
「愛はいいね、船に乗って、日本からここまで来たんでしょう?私も、大きくなったら、船で日本にいけるかな?」
とても知的な表情をしたその子は、流暢な英語で私にそう聞きました。
この家族は、夕飯のスープをコミュニティのNGOからの無料ケータリングでまかなっていました。日本とは、圧倒的な経済格差です。
「そうだね。大きくなったあなたにも、日本に遊びに来てほしいと思うよ。本当に、心から、そう思うよ」
そう言うのがやっとだった私は、「貧困のない世界をつくる」ことを一生のテーマのひとつとして心に刻みました。
a girl at thandhi farm - cape town, 2004
タヒチでは先住民の、人生の師となる人と出会いました。
大好きなガビ
は、黙々とタロイモや椰子を植えながら、当たり前のこととして「3世代先」の話をします。
3世代も先の話をしながら、同時に、いつも「今、ここ」をいちばん大切にしています。
タヒチの人の笑顔はまぶしかったです。
経済的には決して豊かではない生活をしている人たちが、日本から来た私なんかよりもずっと豊かで幸せな時間の過ごしかたを知っているように感じました。大前提だと思ってきた資本主義や物質社会は、べつに当たり前ではないんだと学びました。
太平洋の暮らしや価値観は、本当に素敵だねえ、と憧れのため息をつく私にガビは言いました。
「おまえはアホか。
日本だって、アジアの一国であるずっと前から 太平洋の一島なんだ。 それを忘れるな」
日本も、太平洋の一部。
アジアの一国である前に、太平洋の一島である「日本列島」に住む自分。
「憧れるというけど、それは"人ごと"にしてるだけなんじゃないのか?
太平洋の島に住むひとりの人間として何ができるのか、ちょっとは考えたらいい」
大好きな太平洋の海と、地球環境を未来世代に残すために、自分には何ができるのか。
ガビのことばは、今も強く心に焼きついたままです。
on the way to aoma village - tahiti, march 2006
学生の時に乗ったピースボートで重ねた出会いは、まだまだ沢山あります。
たくさんの人に出会い、新しい価値観にふれたことで、自分はジャーナリストにむかないことに気付きました。 ジャーナリズムには「客観性」が大切とされているけど、私には「客観性」なんて備わっていないようでした。
私は、「現場」で人と直接関わるのが好きです。地球は面白すぎて、第3者的視点で接するにはもったいない。論理的であることより、とにかく誰かに必要とされる実践を大切にしたいと思いました。
そして、どうせ働くんだったら、出会う人すべてが安全で穏やかな幸せの中に生きることができる、
そういう世界を作ることを現場とする仕事がしたいと思いました。
美しいと思う景色を守りたい。
住みたいと思う世界を作ることを仕事にしたい。
社会に起こってほしいと願うような変化の波に、自分自身が関わっていたい。
どうやったら大きな変化の波になれるのか。
学生時代の私が本気でそう考えたとき、世の中を動かしていたのは、残念ながら「お金」に見えました。
それならまずはお金の動きを「現場」で勉強しよう、と思い、アメリカの大きな証券会社 - 今は亡きリーマンブラザーズ - に就職したのが、2003年4月のこと。
ヘッジファンドを売り、買い、たくさんのお給料をもらいました。仕事で出会う人はみんないい人でした。かわいい服もいくらでも買えました。ゴージャスな夜ご飯も食べに行きました。
それなのに、会社に行きたくなくて、どうしても途中で電車を降りなくては、身体が無理になってしまう日もありました。
着たくもないスーツを着て、読みたくもない日経新聞を読んで、六本木にあるビルの34階で、意義を信じることができない仕事をするなんて、毎日自分に嘘をついているような気分でした。
完全に選択ミス。ヒルズに自分の居場所はなかったのです。
その頃、ガンジーの “Be the change you wish to see in the world.
(あなたが見たいと思う世界の変化に、あなた自身がなりなさい)”という言葉に出会いました。
「こうなったらいいのにな」と思う変化がどこかから訪れるのを待つのではなく、
自らがその変化の一部になればいい、という意味のことばです。
待遇はいいけれど意味を見いだせずにヒルズで働いていた頃の私は、このことばを聞いて衝撃を受けました。他力本願で何かが起こるのを待ったり、目の前にある状況に文句を言ったりしても、誰のためにもならない。
大きな変化が起こせなくてもいい。
できることは小さくてもいいから、直接人に関わる仕事をしていないと、自分が侵される。
そう思って、ピースボートにフルタイムのスタッフとして就職しました。
ピースボート
は、年に3回地球一周の船旅を企画する国際交流NGOです。
日本と、訪れる各国から講師やエンターテイナーになる人を口説いてきて、その人たちと一緒に洋上の平和・環境・文化プログラムをつくるのが、私の仕事です。
ケニアに行くときは、債務と貧困の専門家。キューバに行くときは、サルサの先生。中東にむかうインド洋では、イスラエルとパレスチナ双方の学生を招待し、ラパヌイ(イースター島)に行くときは先住民の長老を、というふうに講師を招き、洋上の企画をつくります。
世界から選りすぐってご招待した素敵なゲストや留学生40~50人と一緒に世界18か国をめぐるんだから、3ヶ月間の船旅は、4年間の大学生活に勝るとも劣らない勉強になります。
初めてボランティアで乗船したときから今までに、9度の地球一周をしています。
ピースボートのおかげでこれまで出会うことができた人生の水先案内人の数は、数え切れません。
もちろん、友達の数も、数え切れません。
一度の船旅で一緒に旅をするのは、14歳から96歳までの老若男女900人です。
年に3回の船旅を企画しているから、1年に約2700人の人々がピースボートで旅をしていることになります。船の上では、80歳のおばあちゃんも、団塊のお父さんも、お化粧バッチリの18歳の女の子も、やる気がなさそうだった大学生の男の子も、みんなお互いに声をかけあって仲良くなります。みんな顔がきらきらします。そういう人たちの顔を見るのが、すごく好きです。
peace boat annual global meeting - tokyo, 2005
ピースボートの仕事を続けるかたわら、結婚して、母になりました。
1人目の桃(もも)は6歳、2人目の杏(あん)は4歳です。子どもたちは、とてもまっすぐで、先のことばかり考えて悩むこともなく、「今、ここ」を楽しむのがとても上手。それでいて、今からなら何にだってなれる、無限大の可能性を秘めた存在です。
そんな子どもたちと一緒にいると、自分が何になりたいとか、自分がどこに行きたいとかというような自己実現欲はどんどん小さくなり、代わりに、子どもたちの生きていくこの社会のことがとても気になるようになりはじめました。
いつかジャーナリストになることを夢見た私の今の夢は、子どもたちがどれだけ「この世界は素晴らしい場所だ」と感じることができるか、少しでもいいからそれに貢献できる生きかたをしていたい、ということに尽きるようになりました。
日本でテレビや新聞に登場するニュースからは、世界がどれだけ素晴らしい場所であるかということよりも、世界にどれだけ問題があるかということばかり伝わってきます。
本当にそうかな? と私は、考えます。大人が子どもに「温暖化で地球が危ない。君たちの未来は明るくない」なんて伝えるのは罪ではないかと思うのです。
地球には、まだまだ美しい場所がたくさんあるし、グッドニュースもたくさんある。世界を実際に旅してまわると、それがよくわかります。
実は太陽光は、全人類が必要とするエネルギーの1万倍以上の熱を地球に届けてくれているのだし、地熱も、風力も、水素エネルギーも、開発は日進月歩で進んでいます。
問題は、地球にではなく、人間の作った不完全なシステムにあります。問題は、人間文化が発達しすぎて起こったというよりは、「人間文明がまだ未熟だから」起こっているのではないでしょうか。
大人は、素晴らしい地球の力を子どもたちと一緒にみつめて、どうやったらそれを生かせる社会を作れるかを考えたらいいと思います。「21世紀になっても紛争も貧困もなくならない」という悲惨さだけを伝えても、子どもたちにはどうしようもありません。
たとえば、実は世界の軍事費のほんの1割でも削減することができたら、世界中の子どもたちが学校に行けるようになる、核軍縮だって少しずつ進んでいる・・・というようなことを一緒に学んで、じゃあ自分たちはどう動いたらいいかを一緒に考えたいと思います。
「大人が ”自分たちの時代は終わった、次は若い君たちの時代だよ” というのは
ポジティブなようでいて、実はすごく無責任だと思う」
私にそう教えてくれたのは、カナダの環境活動家の友人、セヴァン・スズキでした。
12歳の時に友達と一緒にお金を貯め、リオデジャネイロで行われていた環境サミットに乗り込んで、世界中の政治リーダーたちの前で伝説的なスピーチをした彼女は、「あのとき、私たちのやりたいことを信じて、応援して、一緒に動いてくれた大人たちがいなかったら、結局自分に夢があっても、何も実現できなかったはず」と話していました。
本当にそうだと思います。大人には、子どもたちの好奇心や「やりたい」「知りたい」を応援するために努力し続ける責任があります。
(★セヴァン・スズキのスピーチ: http://www.youtube.com/watch?v=C2g473JWAEg
)
私は、子どもたちが大自然に触れたときや新しい発見に出会ったときの、「わあっ」という顔がとても好きです。地球一周の船旅を企画し続け、これまでに地球を船で9周分旅をしてきた私は、世界はまだまだ、そんな「わあっ」に満ちた場所であることを知っています。
この世界は、素晴らしい場所だ。ひとりでも多くの人がそう感じることができるように、地球一周の船旅の企画を作り続けてきました。
母になってからは、小さな子どもたちも、そしてその親たちもその体験ができるようにと思い立ち、船の上に「ピースボート子どもの家」というモンテッソーリ保育園を作りました。
私自身が2人の子どもたちと一緒に地球一周に参加し、親子で「わあっ」の体験を重ねてきました。ピースボートならではの異文化体験と、「自分でできた」をとことん応援してもらえるモンテッソーリの環境のコラボレーションのもと、子どもたちはもちろん、大人もグンと成長します。
平和は、子どもからはじまる。今はそう実感しています。
その意味で、「ピースボート子どもの家」は世界一の(!)保育園かもしれません。
(★「ピースボート子どもの家」サイト: http://www.pbkodomonoie.jp/
)
(★洋上レポートほか、「子どもの家」ブログ: http://ameblo.jp/pbkodomonoie
)
海の上の保育園を作った今、夢はまだまだ続きます。
みんなが3ヶ月の時間をつくり、高いお金を払って地球一周できるわけじゃない。
だから地元にも、子どもたちが友達と一緒に海や山を身近に感じて、からだをいっぱいに使いながら学べる場を作りたい。そう思って、少しずつ地域でも活動をはじめています。逗子・葉山の海の季節ごとの変化を親子で思い切り楽しむ「海のようちえん」は、地元の子育て仲間とはじめました。
(★海のようちえん: http://snacks.jp/umino
)
それから、311後の変化を受けて、子どもの可能性や育つ環境は、政府や学校任せではなく、自分たちで守らなければいけないと強く感じました。そこで、「世界のどこにいても自分の能力を開花させ、逞しく生きる子どもを育てたい」を合言葉に、世界中を舞台に働いてきたワーキングママ仲間たちと「グローバル・ママ・ネットワーク」をはじめました。
(★Global Moms Network: http://ameblo.jp/sunday0106/entry-10935447017.html
)
いろいろ動いてはいますが、いちばん大切にしたいのは、ささやかなプロジェクトの成功よりなにより、「世界一のお母さん」であることです。世界一の平和活動家よりも、革命家よりも、いつだって自分の子どもの味方でいられる「世界一のお母さん」がスゴイと思う。
NGOで働く自分の仕事が、ひとりの母親、ひとりの大人としての自分の生きかたに重なりはじめて、今とても楽しいです。
大人になるって悪くない、と思います。
小野寺愛(おのでらあい)
一般社団法人「そっか」共同代表
スローフード日本 理事
Edible Schoolyard Japanアンバサダー
FARM CANNING 企画・広報担当
・
旅とウィンドサーフィンに明け暮れた学生時代、外資系証券会社勤務、国際交流NGO「ピースボート」勤務、船上のモンテッソーリ保育園「ピースボート子どもの家」設立と運営を経て、現在、一般社団法人「そっか」の共同代表。
教育プログラムコーディネーターとして地球を9周し、のべ約6000人の人々と共に世界を旅する中で出会った「平和は子どもからはじまる」が信条。子どもと、子どもみたいな大人たちと、海、森、畑でおいしい革命を実践中。
スローフード日本、エディブル・スクールヤード・ジャパン、FARM CANNINGでも企画・広報を中心に活動中。
1978年横浜生まれ、上智大学外国語学部英語学科卒業。神奈川県逗子市在住、三児の母。
▼著書
『紛争、貧困、環境破壊をなくすために世界の子どもたちが語った20のヒント』
『大量破壊兵器カラシニコフを世界からなくす方法』
(和訳)
▼インタビュー本
「0-6歳の伸びる!環境づくり おうちでできるモンテッソーリの子育て」(クレヨンハウス)など。
Books:
Children’s Ideas from the World – How to End Conflict, Poverty and Environmental Destruction
Kalashnikov AK-47” by Gideon Burrows
(Translation)