『大人問題』五味太郎/講談社文庫 | 砂場

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本の感想と日記。些細なことを忘れないように記す。

五味 太郎
大人問題

絵本作家・五味太郎というイメージしかなく、気軽に読み始めたら驚いた。こんなに毒舌な文章は読んだことがない。辛口の批評家たちですら、もうすこし言葉を選ぶのではなかと思うほど、躊躇無く大人を切り捨てていく。

選定図書とか指定図書とか、あるいは課題図書なんて辛気くさいものが、子どもをとりまく書籍文化のなかにたくさんあります。(中略)
いつどんな本に出会うかとというスリリングさが本の命ですし、それが有益か無益か、有害か無害から、まさに読書そのもののお楽しみなのです。そのところをまったく知らない大人、つまりあまり本が好きではない大人が子どもの本の世界をめちゃめちゃにします。

「絵本の読み聞かせ」というやつ、ぼくは嫌いです。子どもに本の楽しさを教えたい、読めない子どもに読んであげたい……といったスタンスがまず変です。
そしてなにしろ、そういう運動をしているおばさんたちは芸がなくて変な読み方するから、つまらないのです。

人を信じられない人というのは、自分が自分を信じられない人のことです。

アニメおたくがビデオをずうっと見てニヤニヤしてるのが気持ち悪いなら、天体観測が趣味のやつだって、狭いところに入ってカップラーメンなんか食べながら望遠鏡をのぞいてニヤニヤしているわけですから、同じく気持ち悪いです。でも、なにしろ天文学ですから、いいんです。星はロマンチックでいいもんだと認知されているから、いいんです。

子どもをバランスよく成長させておきたい親が願うのは(中略)なんでもいいからまあまあ稼げる子になってほしいという、昔でいう、いわゆる親心というものですが、ちょっと考えてみるとかなり情けないヴィジョンです。子どもにもけっこう失礼な気配りです。はじめから敗者復活戦みたいです。

ダメな親ほど、子どもにとって親は絶対必要だと思っているようです。

「起承転結」と言いますが、それにしたがって書いた文章って大方おもしろくないものです。

『蜘蛛の糸』もいやな話です。あんな細い糸に、あとからあとから大勢のやつが昇ってきたら、「おれが終わってからにしろ」って怒るのが当然です。仏様も、うす汚い手で人を試します。

教師は馬鹿の一つ覚えみたいに、髪の乱れは心の乱れ、服装の乱れは心の乱れ、なんて言いますが、その「心の乱れ」がポイントです。ぼくは、心は乱れるためにあると思います。「乱れない心」なんて、心ではない。

犬飼ってる人って、ぼく、あまり信用していません。犬をかわいがるという行為にとても未熟な感じを持ちます。飼い主がなんと言おうと、犬が弟子とか子分といった立場なのです。犬が言うとおりにすると飼い主は喜ぶのです。

『ジョーズ』なんて映画を見ていると、ぼく、いつもなんとなくジョーズ側を応援してしまいます。でも、どうもハリウッド映画って動物側が最後にはやられてしまいます。だから、ときどき「人食いドラが人食った」なんてニュースを聞くと、とてもうれしい。なんか自然という感じがします。

イルカに熱中する人、どうみてもイルカ以下だと思います。

「人それぞれの事情がある」ということを、これほど無視する社会も珍しい。また、人それぞれの事情を社会の事情にすぐ置き換える人がこれほど多い社会もまた珍しい、そんな気がしています。

そもそも「わかった」人間が「わからない」人間に教えていくという今の教育の構造が、全部まちがってるんだと思います。たとえば、文学をやってきて人間が「わたしはもう文学のことがわかった」、絵を描いてきた人間が「絵がわかった」っていうなら、その人、もうおしまいです。
唯一あるのは、「わかりたい」子が「わかっていそうな」大人に聞くという構図です。
(中略)
そのときにいちばん必要なのは「わかっている」人ではなくて、現役でやっている人、つまり今でも「わかろうとしている人」です。

基本的に子どもに説明できないことはまちがいである、という考えがぼくにはります。

わかり合うことでつながるより、わかっていないことの認識でのつながりのほうが熱いと感じます。わかろうとする、わかりたいと思う意思のようなものが相互関係を熱くします。

読んでいて腹立たしいほど反感をおぼえたり、また、深く頷いて納得したり。一冊の本のなかで、こんなに相反する感想を持った本は初めてだ。読んでいる時の僕の感想はバラバラだが、五味太郎氏の言っていることは首尾一貫しているように見える。ということは、僕のほうの考え方が矛盾に満ちているのだろうか、なとと考えながら読むと面白かった。

こんなに物事を断言して切り捨てる人の話を聞くことはできても友達になれないだろうなと思っていたが、よく考えたら高校時代からの友人とそっくりだ。