今日は ゆきちゃんと久し振りのデートドキドキ

デートの場所は 本郷 ゆきちゃんにエスコートしてもらって坂道探険ニコニコ


本郷三丁目駅改札で待ち合わせ


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本郷通りと春日通りの交差点 本郷通りの坂道



見送り坂と見返り坂


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東大方面に 緩やかに上がってく坂道 傾斜は あまりありません
ブラ・ピーちゃん東京探検記-SN3F1315.jpg 東大赤門


標識(文京区教育委員会設置)の説明】
「むかし太田道灌の領地の境目なりしといひ伝ふ。その頃追放の者など此処より放せしと・・・・・・いずれのころにかありし、此辺にて大きなる石を堀出せり、是なんかの別れの橋なりしといひ伝へり・・・・・・太田道灌(1432~86)の頃在任など此所よりおひはなせしかは、ここよりおのがままに別るるの橋といへる儀なりや」と『改撰江戸志』にある。
 この前方の本郷通りはややへんこんでいる。むかし、加賀屋敷(現東大構内)から小川が流れ、菊坂の谷にそそいでいた、『新撰東京名所図会』(明治40年刊)には、「勧業場本郷館(注・現文京センター)の辺は、地層やや低く、弓形にへこみを印す、其くぼめる所、一条の小渠、上に橋を架し、別れの橋といひきとぞ」とある。
 江戸を追放された者が、この別れの橋で放たれ、南側の坂(本郷3丁目寄)で、親類縁者が涙で見送ったから見送り坂。追放された人がふりかえりながら去ったから見返り坂といわれた。
 今雑踏の本郷通りに立って500年の歴史の重みを感じる。

今は本郷通りだけど 昔は 本郷3丁目交差点付近に別れ橋ってのが あって 江戸追放になった罪人は緩やかな坂道を上がりながら 見送りにきた 親類縁者に見返りしたと言われている


江戸の風景を想像すると 悲しい坂道なんだ


この坂道は 去年 ゆきちゃんと坂道探険して 東大まで行ったんだ


今日は この 見返り坂 見送り坂の坂下から 左斜めにある坂道から探険した


菊坂



ブラ・ピーちゃん東京探検記-SN3F1769.jpg かなり緩やかな坂道 

菊坂通り 


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お肉屋さんの名物コロッケみたいドキドキ 

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菊坂通りの中程に やっと標識発見です

【標識(文京区教育委員会設置)の説明】
「此辺一円に菊畑有之、菊花を作り候者多居住仕候に付、同所の坂を菊坂と唱、坂上の方菊坂台町、坂下の方菊坂町と唱候由」(『御府内備考』)とあることから、坂名の由来は明確である。
 今は、本郷通りの文京センターの西横から、旧田町、西片1丁目の台地の下までの長い坂を菊坂といっている。
 また、その坂名から樋口一葉が思い出される。一葉が父の死後、母と妹の三人家族の戸主として、菊坂下通りに移り住んだのは、明治23年(1890)であった。今も一葉が使った堀抜き井戸が残っている。
   寝覚めせしよはの枕に音たてて
     なみたもよほす初時雨かな   樋口夏子(一葉)

長い坂道ですが、傾斜は全体的に非常に緩やかです。


菊坂を中心に 左右に坂道があります


本妙寺坂


ブラ・ピーちゃん東京探検記-SN3F1777.jpg  坂下
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坂上にある標識

ブラ・ピーちゃん東京探検記-SN3F1775.jpg 坂上からの眺め くの字の坂道



【標識(文京区教育委員会設置)の説明】
 この坂は、本郷の台地から菊坂へ下っている坂である。菊坂をはさんで真向かいの台地には(現在の本郷5-16あたり)かつて本妙寺という法華宗の寺があった。境内が広い大きな寺で、この寺に向かって下るであったところから「本妙寺坂」と呼ばれた。
 本妙寺は明暦の大火(振袖火事・明暦3年ー1657)の火元として有名である。明治43年豊島区巣鴨5丁目に移転した。

写真左で手前を下るのが本妙寺坂です。下ったところの交差点で菊坂と交差しており、その向こう側に見える坂の上に本妙寺があったようです



この辺りは 遺跡や文豪の住居跡など 盛り沢山の場所 今回は坂道目的なので ちゃんと調べてませんが また探険したい場所です


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本妙寺坂の途中に 真砂遺跡があったそうです  



梨木坂



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【標 識】
説  明
  「梨木坂は菊坂より丸山通りなり。むかし大木の梨ありし故坂の名とす。」と『御府内備考』にある。また、『南向茶話』には、「戸田茂睡(江戸前期の歌学者、『紫の一本』の著者、1629~1706)という人が、この坂のあたりに住んでおり、梨本と称した」とある。
 いっぽう、江戸時代のおわり頃、この周辺は、菊の栽培が盛んで、菊畑がひろがっていたが、この坂のあたりから菊畑がなくなるので、「菊なし坂」といったという説もある。
 戦前まで、この近くに古いたたずまいの学生下宿が数多くあった。

設置者:
 文京区教育委員会
設置日 平成18年3月


【この坂について】
 
 文京区本郷5丁目6番と7番の間にある坂道です。菊坂通りから折れて、南から北へ上ります。坂を上り切って更に進むと、旅館鳳明館があります。
 
 標識は、坂の半ばに文京区教育委員会設置のものが立っています
 この標識が平成18年に設置される以前に、ほぼ同じ位置に同じ文京区教育委員会設置の標識(昭和63年3月設置)が立っていましたが、そのときの説明文は以下のとおり、現在のものと異なっていました。原典を当たっていないので詳細はわかりませんが、冒頭の出典が異なっており(旧説明『改撰江戸志』→現説明『御府内備考』)、また、『南向茶話』に書かれているとされる内容が異なっています。

「梨木坂は菊坂より丸山通りなり。むかし大木の梨ありし故坂の名とす。」と、『改撰江戸志』にある。また、『南向茶話』には、「戸田茂睡(『紫一本』の著者、1629~1706)という名高い人の庵が、この坂のあたりにあって、その前に大きな山梨の木が一本立っていたので、梨木坂といった」とある。
 いっぽう、江戸時代のおわり頃、この坂のあたりは、菊の栽培が盛んで菊畑がひろがっていたが、この坂のあたりから菊畑がなくなるので、「菊なし坂」といったという説もある。戦前まで、この近くに古いたたずまいの学生下宿が数多くあった。


 


別名に梨坂・奈須坂があります。坂名の由来は、かつて梨の大木があったため(南向茶話)という説と、周辺に多くあった菊畑がこの坂あたりにないため「菊なし坂」と呼ばれ、それが転じて「なし坂」となった(御府内備考)という説があります。また明治17年測量の陸軍参謀本部製作地図には「奈須坂」と記されています。「なし」が転じたものでしょうか。


ブラ・ピーちゃん東京探検記-SN3F1781.jpg 坂半ばにある標識
ブラ・ピーちゃん東京探検記-SN3F1782.jpg 坂上から
なんか やっと坂道探険に来たぞぉ~と思えた坂道
イイ感じの勾配と道の大きさ
大通りとか商店街の坂道だと なんか坂が味気ないんだよね
今日は かなりの坂道探険

まだまだ あるんだけど・・・・・これから家の事しないとね

大河ドラマと JINも見ないとね~べーっだ!


本郷4丁目5丁目は また探険に来たいと思うほど 楽しい

しかし さすが 坂道キング文京区 サクサクと坂道見つかります