鹿児島講習。人を通してしか、入ってこない。 | 富山このはな酵素風呂 麻蓬(まほう)

富山このはな酵素風呂 麻蓬(まほう)

富山このはな酵素風呂 麻蓬(まほう)
身辺雑記。

5月13、14日と、鹿児島でのわの舞かまちゃんの講習に行ってきました。

まだ今でも消化しきれない程の収穫を得ました。

ここに書くということは、人に伝わるのを、あるいは邪魔するかもしれない。

書くことでここにみんなが物見遊山で行って、価値がなくなるのを恐れる。
この人こそは、と思う人にだけ伝えたい。

ここにこんなものがある、と知って、真摯な思いで行ったとしても、感動には至らない。

書くことの薄っぺらさを思う。

怖いながらも、でも、どなたかの、というより自分のために、書き記しておきます。


仕事が終わってから富山→大阪へ高速バス。伊丹空港近くに宿を取り、翌日朝早く鹿児島空港に飛びました。




タクシーで霧島神宮へ。

ぱっ、と乗ったタクシーの運転手さんが、とても縁を感じる人でした。薩摩の近代史を説明してくださったのですが、
初めて江戸~近代史が息づいて私の中に立ち上ってきたのです。

薩摩は、フィクサーとも言うべき、凄いところだった。徳川が怖れた島津の殿様。さすが、天孫降臨の地。ごくわずかの時期に、こんな人材が一度に。もっともっと、あるのですが、ここでははしょります。

霧島神宮で、運転手さんはご自分も降りて、ガイドをかって出てくださいました。




そして、運転手さんが一番案内したかったところ。

御神木の、裏でした。

あっ、と息をのみました。


実は、鹿児島行きの1週間前から、仕事の方で思わぬ人間関係のトリプルパンチが続いたのです。あたかも昨年の人間関係のトラブルのように。八方塞がりで、桜島の火口に身を投げようかと思うぐらい苦しみました。

そんな中、仕事先の特養で、美しい光景を見たのです。

1人、みんなから離れた机でお昼をいただこうとしている車椅子の男性が、
お膳を前に、静かに
手を合わせて祈っておられました。

右の横顔のお姿。
窓際ということもあり、
まるで修道院か、絵画のようでした。

本当の、心からの日々の感謝がないとできない祈りの姿でした。

辺りの空気がそこだけ清らかでした。


そして鹿児島。
運転手さんが私のためにわざわざ案内してくださったのは、これ。




霧島神宮の御神木、裏から見ると神様が手を合わせているお姿に見えるところがあるのです。




仕事先で手を合わせている男性に胸を打たれるという経験をしたばかりだったので、なおさらの衝撃でした。

宇宙から明らかになにかのサインを見せられたような。

この神様の姿、ポイントは、表からは人に見えない、というところ。




裏から、
それも導かれた人のみが知ることができる、という。
ガイドさんですらあまり知らないそうです。

わの舞の「背中」とも、人に知られないところでの見えない努力、、とも通じてるようでした。




上野原縄文の森。


今回、私がどうしても恋愛ができない
理由も分かったような気がしまして、
それは私のこの悲しみなどを理解、背負える人がいないからだ、と。
その孤独から、でも人とは繋がりたいので、
この身で、全体につながることを、
とても大変なことを、課せられているのだなぁ、と。

でも、きっと
私の他にも、全員ではないけれど、
そういう人知れない深い孤独を抱えて
人と繋がることの難しい人は
たくさんいるのでしょう。





薩摩の歴史や御神木を案内してくださったタクシーの運転手さんといい、
これが天の温かい心だとしたら、

これも何かを知るための、孤独なのでしょうね。
深い愛を知るための。

でないと、御神木の神様まで
案内されなかった。
それに、胸に響かなかっただろうから。


今回、鹿児島講習をお世話してくださったUさんに、別れ際、「人を通してしか学べない」というようなことをお伝えしました。

本当にそれは最近思うことで、
本や、あるいはダイレクトに自然からでも、
それを真に身にして自分のものとするには、
「人」を介さなくては入らない、真にならない、ということです。

タクシーの運転手さんから薩摩のお話もそうですし、

辛いことが続いた中で、仕事場で手を合わせる男性に感動したことがあっての、
御神木の神様の姿、

それも私を囲む人間模様がないと、
入ってこないものだった。

目に見えている、人の、表の姿ではなく、
その「裏」にある宇宙の御心がある、と知り、
虚心坦懐でいること。

それこそ、御神木の、表の木では見えないけど、
裏では神様があなたのために祈っているよ、というような。あなたには分からなくても、お祈りするあなたの後ろから、そっと祈っていますよ、と。


あの地層もすごかった。







24000年前の大地。

そして、たくさんのいのち、人の喜び悲しみ、営みすべても薄い一枚の土の層になっている。



わの舞の講習で、(そこが地上何階であっても)大地に仰向けになっている気持ちになり、地球の奥深くまで意識を向ける、ようなのがあるのですが、

これが、そうだった。

大地の表面の、その下にはこんな風に。
たくさんの命がレイヤーになっていたのです。

離れて見たら、一枚の絵のよう。それも、とてつもない。






何万年かしたら、またこの時代の私たちも
土となって、
地層の一枚、になるのでしょうか。


今回、ラッキーなことが続いて、
雨の予報が晴れたり、
宿が値段据え置きで、もっといい部屋に移れたり、
講習が終わった後、桜島が噴煙あげるところ見られたり、




乗れないものと思ってた特急きりしまに思いがけず乗れて、






しかもその車体が、特急きりしま、知らなかったのだけど、私の好きなデザインだったり。

なぜか富山、という人にも3人お会いしました。富山出身。旦那様が富山。母親が富山にいる。

これも、宇宙からの励ましに思えました。


中途半端に聞こえない、などとという
この私の境遇は、実は恵まれてるのではないか?と思ったりもしますが、

でも、なんで、私が?

人と普通に喋って楽しんだり、
普通に恋愛もしたかったのに、
なんで?と思いますが、
そこは今は、分からないままに、
今の私には「幼すぎて」分からない、

いつか分かる時を待って、

謹んで受けていようと思います。