京都の街より深いかも、なわの舞。 | 富山このはな酵素風呂 麻蓬(まほう)

富山このはな酵素風呂 麻蓬(まほう)

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身辺雑記。

3月、弥生。

ひな


近所の瀧社の境内の雪もこのくらいに減ってきました。


とけた


柔らかい春の雨、が雪になり、雨になり、晴れてまた雨、雪、と繰り返して、

日本


富山はゆっくりと春になっていきます。

空の上


いぬふぐり4

草の

まどから

道の


おかげさまで酵素風呂の方は客足が絶えなくて、
私が仕事から帰ってくると玄関にはお客様の靴がいっぱい、で
一種シェアハウスの様相になってきてて、ちょっと嬉しいです。

お客様の中には市川海老蔵さんが普段から酵素風呂に入ったり、
ついには乳がんの奥様のために自分で勉強して
自宅に酵素風呂まで作ってしまった、という話を聞いて来られた方も
ちらほらおられるみたい、とむろやん。

それは知らなかった!
海老蔵さんは元々好きですが、まさか、
ご自宅に作られるまで酵素風呂分かっててくださってたとは!

海老蔵さんのブログより
  ↓
http://ameblo.jp/ebizo-ichikawa/entry-12233259006.html

海老蔵さん、ツアーで4月5日には富山に公演に来られるそうで、
うちのお店に入りに来られないかなぁ!



京都、わの舞かまちゃん講習。

会場の近辺が
京都芸術センター、錦市場、と慣れ親しんだ場所ばかりだったので、

懐かしいことこの上なし。講習の前後、歩き回りました。

もんの


師匠の京都の家が下鴨神社の近く、昔置き屋だった風情のある家でした。
師匠も京都の街を袴で歩く人だった。

錦市場。


錦の



昔と変わらぬお店、新しくなったお店。

かつおぶし

錦

ほしがき


敷地としては金沢の近江町市場の方が広いのですが、
やはり密度が違う。歴史が違う。
味わい深い!

おもちの

ひろげ


講習後、会場のすぐそばに
前から行きたかった有名なパンの「進々堂」があるのを発見。
吸い寄せられました。
ここの創業者も、内村鑑三門下生のクリスチャンで、
「パン造りを通して神と人とに奉仕する」って。

ちょうどさっき受けた講習の内容とちょっとシンクロしてて、
嬉しかったり。

つばめの

家の


夜、なりゆきで老舗の「田ごと」本店。
棗(なつめ)そばと笹巻き寿司をいただきました。

田ごと


お給仕の方もお着物、お客様もお着物で懐石。

随分とこういうお店行ってないので、たまにはいいか、と。

中庭にも稲荷神社があったりで、質の高い料理と静謐な空間を堪能してきました。

京都、ほんとに奥が深い。歴史の重みが多重になってて。
これから残り一生住んで味わい尽くしたいな、とも。


数日後の、むろやんと休みが一緒になった日、
これも一年ぶりに映画観に行きました。

「ラ・ラ・ランド」。

らら


監督がデイミアン・チャゼル。
前作の「セッション」でその製作過程の天才破天荒ぶりが
気に入って観に行った監督です。

独身の頃、昔のミュージカル映画を家でよく観ていたのですが、
あまりのカラフルさに映画の世界に入っていけるかな、と若干不安。

でもオープニングもよかったし!

ララ


前作で大好きになった鬼教師役のJ.K.シモンズがチラ役で出てきたので安心したし。

作中、「パリ」が出てきたので、「?!」と。
ちょうど映画観る前に美味しいパン屋さん行って、エッフェル塔のポスター見ながら
パリの話、あ、いや行ったことないけど、
こんな美味しいクロワッサンを朝食で食べる
パリの人はリッチだなぁ、とかそんな話をしていたから。

オープニングに出てくるとはあまり考えず、渋滞の話もしてたし、
更に言うなら
地面に穴を掘って温泉が湧き出てくる話をむろやんにしてて、

(どんな夫婦なんだか)
予告で出てきたのが「バーニング・オーシャン」という、
海で油田掘ってたら引火してしまって世界最大級の人災、という映画だった。

で、「ラ・ラ・ランド」ですが。

その渋滞だの、パリだの、と
さっきまでのリアルタイムの自分へのシンクロ率が高くて、
まるで私に宇宙から送られた映画みたいに感じられました。


後半、泣けて泣けて。涙が止まらなかった。

これ、ツイン・ソウルを描いた映画ですね。
後で買ったパンフでも、監督はそう伝えてた。




翌日、特養で清掃の仕事してる時、
介護のおばちゃんが皆さんの飲み物用意しながら
「は〜るよ こい♪ は〜やくこい♪
あ〜るきはじめた みいちゃんが〜〜」と歌っておられたので、
私も掃除しつつ、「あ〜かい はなおの じょじょはいて〜♪」と加わりまして、
もろ映画の影響受けてました。



そして昨日、金沢のかまちゃん講習。

じんちょうげ


ここだと、交通費往復1000円ぐらいでおさまります。
和服講習ではないのですが、和服の舞をメインにする、ということで、
男物の着物で家から着付けて行きました。
この時期、下着2枚、ヒートテック、襦袢、袷、羽織、
袖口にはアームウォーマー、襟にはスヌードでOK。
むしろ、暑かった。


袷の男物着物。
これ、リサイクルのもので1000円。男羽織も京都で買って、540円。

着物を着付けていく時って、上下セパレートの洋服とは違って
一枚の布を体にまとっていく。
自分の身体を包む。
紐で結わえる。結ぶ。
また一枚布をまとう。
結わえる。
丁寧に、丁寧に。

ラッピングの作業なんです。
自分自身が、贈り物。宝物。

そういう気持ちに、自然となる。
そういう心持ちに、自然となる。

わの舞で、45度上方を見る時、自然に敬い、畏みの気持ちが生まれる、のと
同じですね。

日本の文化、さらに言えば超古代人、日本人の考えの深さには驚く。

一日、ずっと着物で過ごしてみてました。
金沢に向かう高速バスに乗ってる時も、なぜだか肩が軽い。
身体が楽。

そして舞う時、

帯、男着付けにしてるので肋骨を圧迫はしないのですが、
帯苦しいな、と思ったらそれはお尻出てお腹出てるよ、ということなので
お腹をたんびに引き上げる。

着物着てると、なぜか中心軸が勝手に整う。
舞いやすい。

着物が護ってくれているのです。




今回、内股のねじりを意識しやすいように
あえて動きやすい袴をはかないで舞ってみることにしたのですが、
和服バージョンでないあゆみの舞も、なぜか安定して、安心して
どっしりと舞える。

腰も膝辺りも、着物でくるくる巻いているからね。

そして、この着物が経てきた先人の思いや歴史、民俗、環境、時代、
そういったものも込みで舞っているようで。

なんなら、自分がタイムスリップしてきて、
今この時代の人にまぎれて

舞っているようで。

和服、すごい。


最近、清掃の仕事のおかげもあってか、楽に舞えるようになってきました。
体、心、疲れないように、中心軸を意識してるから。
   ↓       
(わの舞でそういうこと知ってるから。)

自分ではない、他の方(存在?空間?)の力も
私の動きを手伝ってくださってるような心持ちもします。

地道に講習会で舞うことを重ねることで、
自分の中に確固たるものが生まれてきます。

他のダンスでは、これは生まれない。
人間の頭を使って、人に向けて振り付け、演出するものでは。

居合いでも、お茶会でも得られない。

中心に向かって、みんなで輪になって同じ動き、
身体遣いを深めていくことで得られるもの。

自分の感覚の、新しい発見が、喜びとなっています。

私が「わの舞」やっている、と聞いてある人が
「で、それだけお金かけてて、資格取れるの?ならムダじゃない?やめなさい」
と言っていたそうですが、

資格取ってお教室開いて、発表会や公演があって、という
ダンスではない、ということが一般にはなかなか理解されないみたい。

お金をかけて、その元手を取り返せるくらい自分で稼ぐ、という世界でなくて、

一生かけて続ける修行みたいなもので。


何百回と繰り返す中で分かってくるものというのがあって、
それは自己満足、ではなくて。


己の生きる力になる、
常に明るい方向へ心と頭を向けていられるための、というか。


ほかのジャンルでもそういう要素はあるかもしれません。

でも、わの舞、深いのです。

京都の街より、深いかもしれない。

だから、わの舞の講習会に足を運ぶ。

上達するとか、先生に認めてもらうためではなく。

己のために。



朝日新聞の記事より

信じられないくらいの星の数。全部が一等星に見えた。
人は亡くなるとお星さまになる。その話を思い出した。
星が、わたしたちを照らしてくれている。


昼間もね。
富山は、夜、星がびっしりたくさん見えます。

見えないけれど、先人の人たち、それこそ明治以前、
江戸時代、平安時代、奈良時代、縄文時代、それ以前の超古代の時代、の人たちの日々の営みが重なって今の時代がある。

なんなら恐竜や始祖鳥、三葉虫の想いもここには同時に息づいています。

地球が出来る前の、他の星での記憶も引き継ぎながら。

マンモスや奈良時代の人たちに見守られながら私たちは生きている。


「折々のことば」より

なにしろぼくの体はかけていて
あんまり速くはころがれない
それで立ち止まっては
みみずとお話する
この花はいい香り・・・


S・シルヴァスタイン

球体の「ぼく」には欠けた部分がある。
その足りないかけらを探しに出かけるが、
がったん、ごっとん、うまく転がらない。
でも、虫や花と遊べるし、穴ぼこにも落っこちる。
やっとかけらを見つけまん丸に形が整うと、
一直線に転がってもう誰とも遊べない。
欠けている所に「ぼく」はあった。
絵本「ぼくを探しに」(倉橋由美子訳)から。


最近、人の「欠けた」部分が愛おしく感じられるようになってきました。
(そうでない時もあるけど)
自分も含めて。
だから、そこ、欠けた面は「愛せる」面、となる。


映画「ラ・ラ・ランド」でも、主役の二人はダンスの名手、ではなく、
当人たちもダンスが超絶うまくなろう、とはしなかったそうです。

ダンスの方がうまいと見えてこなくなるものがあるから。
かえって少し拙い方が、伝わるものがあるから。

そしてストーリー的にも、もし二人が一緒になって完璧なものになってしまったら、
逆に得るものはなくなってしまうかもしれない。
欠けていたから、得られた。

わの舞でも、「うまい」「上手な」舞はそんなに評価されるものではなくて、
昨日金沢の講習会でも初めてわの舞に参加してくださった方がおられたのですが、
その方の舞われる方がかえって伝わってくるものって、ありますね。
とても、愛おしく思いました。


いろんなことがあって、私も変わってきました。
わの舞で踊る仲間も、折々で魂の成長をみせてくださいます。
だから、舞うその度ごとに、連続で天の舞舞っても
微妙に違ってて、さながら万華鏡のようです。

私も、あー、まだまだだな、と自分にがっかりしてしまう時があって、
でもそれは
神様、上が、優しく軌道修正してくれている、ということで、
(これでも)そっと直してくださった、という安心感でもあります。


桜、早く咲かないかな。
桜吹雪の下で、去年はマスターできていなかった
「さくらさくら」を舞うのが楽しみです。

ねこの