雨の切れ間に | 陶製アロマペンダント制作の翠風窯suifuyou ~暮laugh陶work~

雨の切れ間に



コンニチハ、スイフウヨウです。
ここのところ雨ばかりです。

雨のおかげでベランダの植物は恵みどころか、土に変なわかめみたいなのが発生しています( ̄- ̄;)
それがそのうちカピカピに干からびるんです。

それでもわたしは、特にこの季節、雷が鳴るとなんだかカラダの奥-を揺さぶられるようで心地いいのです。
普段鈍感になっているところに、感覚が宿る感じがします。
「気」が宿るとも言いますか。

あ、生きてる( ̄д ̄)!

って。
重低音が好きなのは、たぶんこのあたりでしょう。



そしてオリンピック、面白いですね。
ホントはそもそも興味がナイって・・・言ってしまうと非国民・・・?
それでも人には興味があるのでちょいちょい観ていると、みんながんばってるんだなって。
わたし・・・あそこまでがんばってないなって( ̄- ̄;)
いやでも人と比べるもんじゃないと思いなおしたり。

わたしのがんばりといえば・・・ちょっと悩みどころです。
どこかやり方を間違ってるのかもしれません。

「わたしがやらなきゃ!」
的場面ではとってもがんばってしまう性質なので、それで
「そういう、やる人」=いつも
だって思わせてしまうところ。
思わせてしまったからには後にひけなくなる。

いや、でも・・・わたしなりには「がんばって」それをこなしてるんです、なんて・・・ホントはいいかげんで怠惰でわたしのリズムはもっともっともっとスローなんだって・・・当然思われなくて、自分でそれを維持しなきゃいけないって思ってしまって、自分の首をしめている( ̄- ̄;)ってことが度々あります。
人と関わると、
「わたしダメ人間だから、いつもよりがんばんないとフツー人間になれない」
っていう呪縛なのかも。

そういう自分のムリしているところ、ムリは所詮ムリなんですから、いつか破綻するんですよね( ̄▽ ̄))
そうやってこれまで自分が破綻してきたんです。
が、今。
いっこづつ話をしてこんがらがった糸を解いていけるっていう環境にあります。
ありがたいことです。

それができなくて、人と人の糸は切れてしまうよね。
大抵ね。

ただ、誰かに受け入れてもらうのと同じく、自分だって人を受け入れるキャパを確保しないと。
人と人が向き合うって、そういうことなのかなと。
要求ばかりでは、計算が合わなくなる。



たぶん、がんばって初めて、

生きてる

って感覚や自尊心は養われるのかもしれません。
だからついやりすぎてしまう。
で、がんばりすぎで「切れて」しまうこともある。

燃え尽き症候群ってのは、
「がんばったのにその成果が得られなかった」後らしいです。
そこまでのダメージってことは、そうとうなんだけれど。
そうしないと生きていけない、くらいの強迫観念だったり。

でも、何かが終わればまた始められる。
その「切り替えスイッチ」を見つけられれば。

「がんばる」って連呼してしまいましたが、
がんばる=とにかくがむしゃらにやる
ではなく、先を見据えて計算ができる脳を養って、心身共に鍛錬するってことなのかなと思います。
それができれば、燃え尽きてカラッポになったりはしないかも・・・?
もっと早く知りたかった( ̄ー ̄)・・・


がんばったことが、結果云々を抜きにして、その後の力になりますように。


夏もまた、いろいろ考えてます( ̄- ̄))