外国語は必要か

我々日本人が外国語に不得手なことはよく知られている。さらに我々自身かなり自虐的なのだけれどそのように信じ込んでいる。だが本当にそうだろうか。13歳の中学1年生から大学の前期課程まで、8年間ぐらい毎週教え込まれて、その結果が外国語駄目だ?おかしいと思いませんか。理由になりそうなことはいくつかある。先ず言語体系が日本語は膠着語、それなのに欧米語はだいたい屈折語、頭の構造が原初的に違っている。なるほどねえ。しかし同じ膠着語系統の朝鮮語の人々はかなり上手いし、孤立語系統の中国人も上手くしゃべっている。もうひとつ、わたくしの見るところ欧米諸国民の中でイタリア人は外国語を話さない人はかなり多い。以前のことだが、あるイタリア人に大真面目で言われたことがある。「日本人はいいね、母国語の他に英語がわかるし、それにあの恐ろしい漢字が読めるんだから」たしかに我々は外国語が下手だが、このことは同時に自虐的な、つまりマゾヒスティックな快感を覚えていることも事実である。現実の問題として外国語は必須に近い、高校では必修科目のようだし、大学入試に外国語を出題しないところがあるだろうか。

世に英語ブームというのがあり、小学生からの英語学習を望む親たちも沢山いる。この理由がまた複雑なので、我が子に外国文化に接する機会を与えてやろうというのは表向きの理由で、実際は我々の持つ一種の不満解消策、「オレが会社で出世できないのは英語ができない所為だ」あるいは「うちの旦那がいつまでも課長になれないのは・・・・」となるのである。理系天国での事態は同じようなものである。

わたくしの学生時代は、まだ第一外国語英語、第二外国語独語か仏語であった。慣習で理科系は独語で文系は仏語が普通であった。ロシア語、スペイン語、それに中国語が認められ始めたのは教師商売を始めたころからである。今日では大学入試でも英語でなく、他の外国語を選択できるようになった。東京地区では、その草創がヨーロッパ系の団体により外国語としてその母国語を課す学校もいくつかある。例えば独協学園は文字通り独語、暁星は仏語である。友人でも暁星出身者は仏語がよく出来てうらやましかった。ただ、英語には苦労したようである。

最近の風潮では英語(本当は米語)最優先で他の言語については全く無関心な事が多い。これは日本の現状にもよるので、圧倒的なアメリカ文化の力によって起きている現象である。日本以外の職区でも似たような事実がある。十数年前までは東欧諸国では独語の力が大きかった。例えばハンガリーがそうである。何回か現地で開催された国際学会に参加したことがある。座長までさせられたが、わたくしは英語でやった。独語には自信がなかった。でも会議の主流となったのは独語であった。街へ出てもタクシーの運転手は独語は分かっても英語は知らない。こうした状況は急速に変化している。東欧圏はもちろんのことフランスでさえも英語でなんとかなる。これが良いことかどうかは未だわからない。米語第一の状況には気をつける必要がある。よく言われる標語に、英語は世界語とか英語を使えば十億人の人たちと交流できる、というのがある。これは真実ではない。英語学校のコマーシャルの仕業であろう。世界中で最も話されているのは中国語だろう。国家数ではスペイン語かアラビア語ではないだろうか。

ここまで書いてきてひとつ強調しなければならないのは、決して国粋主義者でもなく、英語嫌いでもないこと。むしろ、英語は好きである。海外にはよく出かけるが今まで英語で困った事は殆ど無い。と言っても流暢なのではないので、とにかく発音が悪い。よくインド人の英語みたいだとの評判である。だから、インド人は誉めてくれる?わたくしがtea というとcheese と聞こえるらしい。レストランでそういう目にあった。慌ててそこで言い直した。fromage 通じたわけですよ。一つの教訓、外国語は二つ以上を学習せよ。二つ目からはずっと楽になる。ヨーロッパでは二つ以上の言葉を解する人が多い。特に接客業関係の人、すなわちウエイターとかドアマンとかタクシー運転手とかは。その程度なら、わたくしでも数ヶ国語は可能である。

随分以前の話だが、学部学生のころ独語の影響はかなり強かった。大教授たちはドイツに留学していたし、学問としてもドイツ流であったのである。化学は相当英米化していたけれども、薬学の世界には医学と同じく、ドイツ文化の力が強かったのである。例えば化学で使うフラスコは薬学ではコルベ、ビーカーはベッセルなどなど。こうしたドイツ文化の影響はかなり弱まっている。無機化学の分野で最高の資料は、ドイツ化学会が主導する大冊のハンドブック Gmelins Handbuch der anorganische Chemieであろう。これは今日でも刊行中であり、無機化学研究にあたっての根本資料である。当然独語で書かれており、このためだけでも独語の読解力は必須のことであった。しかし近年の方針変更で題名は独語であるけれども、内容は英語となっている。これを当然とみるか嘆かわしいとみるかは論の分かれるところだろう。我が国でも、同様なハンドブックの刊行が企画されたことがある。無機化全書 一九四五より丸善出版、しかしこの企画は完結することが無かった。化学の研究にあたって、これは恩師の井上先生に教わったことなのだけれど、肝要なのは、先ず事実を把握すること、そうして実験により、あるいは思索により自らを発展させることである。事実の把握には資料にあたるほかはない。最近では科学雑誌の報文やインターネット上の情報に注意することが多いだろうが、より古典的には印刷された資料による。最も根本的なものは、ハンドブックということになる。文系の辞書がこれにあたる。ハンドブックに次いでテキストブック、つまり教科書だが、ある領域における通観のために必要である。良書の選択はかなりむずかしい。大学教授たるもの、学生に買わせて小遣い稼

ぎをするためによく刊行されるものである。わたくしにもある?

標準的な例として二、三をあげてみる。

  柴田雄次    無機化学      岩波全書

  千谷利三    無機化学      産業図書

  佐々木、高本

  木村、橋谷共著   新教養無機化学   朝倉書店、

  杉下

さらに特殊な話題について調べるならば、多数の参考書類があろう。

理系天国において文学を鑑賞することはない。あるとすれば、それは趣味の問題である。必要なのは多様な情報を獲得する手段としての語学力である。殆どの場合、外国の文献は翻訳によってかいけつ