いろいろと書いてきたけれど、少々題材につまってきたので、趣向を変えて「音楽漫談」といったって別に芸能の漫談ではなく、ちょこちょこと軽いのりで書くわけだ。漫談は大辻司郎が始めたと言われているけれど、ここでぼくがいうのは、中国語でいう漫談、堅い論文ではなく、エッセーとか随想くらいの意味。

もうひとつタイトルが考えてあって、「芸術と科学のはざまで」つまりぼくのプロフィールのつもりなんだけど、かなり大仰だねえ。

無機化学の出でありながら、どういうはずみか芸術系の大学の教師になってしまった。「これがまあ ついの棲家か 雪五尺」というわけで上野の山にすみついて長年月、いろいろありました。この辺りのお話をします。

芸術大学あるいは芸大、ゲーダイなわけだが、ある時地方の宿に宿泊して、中居さんが「お客さん、お勤めは?」と聞かれて「芸大ですよ」「ああ、あの芸能の」芸術じゃなくて芸能だってさ。考えてみると、そういうことかもしれない、気質からいいますとね、美術学部の先生は職人さん、音楽学部では芸人さん、じゃあぼくは?寺子屋の師匠。

実はやや他大学とは違う気風があって、入試発表に当たって、普通は恒例の在校生による(多分は体育会系の)胴上げや万歳、これは芸大では厳禁になっている、理由はね、教授たちも不合格の苦汁をなめていて、落ちた奴の身になってみろ、得意になるな!ってわけ。

階級意識はかなり厳しくて、ちょっとプライベートな話をすると、芸大音楽学部に高校で1年先輩がいた、戸山さんといってね、実はこの高校、これも序列が実にやかましい、どこかで同窓であることが分かったとする、開口一番「そーか、それでキミ何回?オレ60回だけど」「ハイ65回です、センパイ」これですべてが決まる。戸山さん59回だった、ぼくが60回、先輩がとたんに威張りだす、あ~あ。

全学の教官の懇親パーティーがあって、いつものように、先輩いばっちゃって「オイ オマエ」となるわけ、あたしゃあペコペコしている。近くにいた教授連が聞きとがめ「おい戸山、お前先生を存じ上げているのか」ぼくそのとき助教授でね、先輩は2枚下の助手かなんか、「だって、ボク先輩なんだもの」ぼくはあわてて「そうなんです、ワタシ後輩なんです」連中態度をやわらげて「ああ、そうなんですか」

といったお粗末。

ぼくは所属は美術学部だけれども、兼任で音楽学部でも教養課程の講義をやっていた。次回はその辺のお話をします。

エッセーというより つまるところ漫談ですが

【音校での授業】

東京藝術大学はぼくのいた頃は、美術学部と音楽学部との2つからできていた。通称は美校と音校、前身の東京美術学校と東京音楽学校の名残なのだ。

ぼくは美校の教官だったのだけれど、なにしろ1人しかいないのだから、両方教えることになる。美校では比較的簡単で、美術材料の化学と称して絵具の化学かなんか、それに染色化学、音校では大袈裟に科学概論、はじめのうちはややおとなしくしていたけれど、そのうちに科学史および科学哲学(えへへへへ)どうせ誰も聞いていなかったんだろ。

それで、授業の場所、これが驚くべきもので、今は台東区に移管されている、建築文化財の奏楽堂、これが未だ構内にあって、収容力が一番あるから、此処で講義をしていた。階段状の客席!に学生が座り、オーケストラがのる舞台の前面に立ってしゃべるわけ。やりにくいものですよ、第一見下ろされるし、こっちからはよく見えない、それに舞台が広いから、うしろが空いていて収まりが悪い。それからもうひとつ、100人超のお客さん?だから、出欠なんてとれもしない、始まってしばらくすると、事務官が出欠票を持って現れる。ここで拍手が起きたりしてね、これが終わると何人かが逃げ出しちゃう、黒板に板書なんかしていると、背後でドタドタ、コツコツ、足音がする、ぼくは気が小さくて振り向けない、音が消えたところで、つまり何人かがエスケープしたところで、振り返って「えーと、それでね」なんてさ。

出欠票が最初だとすぐに逃げられちゃう、最後にすると、終了間際にやってくる奴がいる、途中だと・・・・・・・

悩んだあげくに思い直した、こりゃきっとつまらないんだ、面白くしてやろう、それでいろいろと工夫をした、これは美術学部でも同様、見世物をしたり、外部に出したら問題を起こしそうな内容にしたり、そのクセが未だに抜けなくて、ブログの内容いささか危険思想かも。

そのうちに奏楽堂じゃなく、合奏練習用の第6ホールというのを使うようになった、これは具合がよかった。前面に黒板を背負って指揮台が置いてある、それから譜面台!あとは室内一杯に楽員用の階段状座席、使ってみて感心した、台上に立って、ちょっと伏目勝ちに前を見ると、前列の学生と目があう、普通にしていると、中頃の学生の目と、そうしてちょっと顎を出して奥を見ると丁度後列の連中と、なるほどねえ、指揮者と楽員とは目でコンタクトとっているんだな。うまくできてるなあ。


かなりの重病で入院生活を2ヶ月、ようやく回復したのでブログを再開します

まず軽い話題から音楽に関するエッセー風随想です。

【芸術系大学の中で】

実はぼく、音楽方面はからっきし、それなりに今は文化の一翼としての理解はしているつもりだけれど。それなのに、助教授だ教授だとキャンパスの中で歩き回ることとなった。なんにもわからないのですよ、ある時、入学式の後だったかな、我が大学そこでの行事、今は知らないけれど、君が代斉唱なんてない、ぼくもそうなんだけれど、あの国歌について芸術作品としての異論があるのだ。誤解と偏狭な国家主義での攻撃を恐れながらあえて言うけれど、あれは大相撲の場での斉唱がお似合いくらいの程度のものなのだ。これ以上はここでは触れないけれどね。

それからブラームスの大学祝典序曲なんていう陳腐なものもやらない。大学オーケストラがバッハ、ヘンデルあるいはモーツアルトなどの作品を適宜演奏する。それでぼくなんか、感心して聞いているわけ、ところがある時、式が終わって廊下まで出たら、そこで指揮科の先生が何人かの教授連につかまって文句を言われている。「ねえ、いくらなんでもひどすぎるんじゃないの」「こんなの初めてだよ」指揮者をつとめた先生、小さくなって「いやその、どうもすみません」ぼくは驚いちゃった、何処がいけなかったんだろ。それからもうひとつ、お正月の賀詞交換会、一杯やって楽しく終わる、ここでも音楽学部の教授連の立ち話、大きな声で「昨日のね、ひどかったねえ」「そうだね、いくら正月休み明けとはいってもねえ、あんなに声が出ないなんて」前日、新春オペラガラコンサートの放映があったんだ、ぼく感心して観ていた、それなのに、クロート筋はすごいや。

ぼくが初めて聞いたクラシックコンサートは、日比谷公会堂での、N響公演、オペラ名曲集、指揮が山田和男さん。ぼくは未だ学生。氏はローゼンシュトックが去った後、尾高尚忠氏と共に、日響のちのN響を背負って立った。この山田さん指揮台上で暴れるのが有名で、振り回した指揮棒が手から外れて客席に飛んでいったり、指揮台で飛び跳ねたあげくに落っこちて客席にまっさかさまとか、逸話には事欠かない、こうした偉い先生、どういうわけか芸大の万年助教授だった、ぼくが駆け出しの助教授、そうして山田先生も助教授、同格になってしまった。とにかくあたしゃあね、実力は別として、位だけは高くなってしまうのよ。山田先生が不遇だったのは、何か原因があったのだろう。女性関係だったのかなあ、と思わないわけでもない。晩年の先生は風貌が実になんというか、その道の豪の者って感じで、凄く風格があった。俳優の西村晃とか、文化財関係の岩崎さんとか、同類の顔立ちだったもの。容貌や風采大事なんですよ。どういう事か分かった?

この「豪」にはいろいろな意味があって、山田先生、大曲を指揮していて、楽想が複雑でこんがらかる、収拾がつかなくなると、先生騒がず悠然と、指揮棒を右から左手に持ち替え、空いた右手で胸ポケットからハンカチを取り出し一閃、これが独特の合図で、「ヨキニハカラエ」こうなると楽員は指揮棒なんかには目もくれず、勝手に弾いちゃう、そうして目出度く終止となる、のだってさ。凄い山田先生、やはり大物だ!