五 理系天国の天使 職業としての大学教授


五~一 教授って何?


前章でわたくしの恩師井上教授について喋々喃々と語ったが(いや書いたが)これは単なる思い出話を意図したものではない。理系天国についてのお話、誰にでもすぐに分かりそうなことだが、ここにちょっとしたヒミツ?があって、まああまり読者諸賢がご存じないようなのを二つ三つ四つとご披露しようとするのが、本書の目的である。それで先ず、教授とは何か? まっとうな職業のひとつであるし、わたくし自身そうだったのだから、まあ平凡なものですよ。

分かっているようでそうでもない、それが一般常識、例えばテレビなどで出てくる教授の姿、これが変なもので、有名な「白い巨塔」くらいになると作り手も身をいれるからいいのだが、家庭ドラマとか、コマーシャルの場合だと、これが実に妙なもので、よくあるシーンで、学生や教室のスタッフが、「教授!」と呼びかけている。わたくし今まで、そう呼んだこともないし、呼ばれたことも一度もない。実はわたくしの娘婿、有名大学のエリート准教授なのだが、彼にも聞いてみたのだが、やはりセンセーと呼ぶことはあるけど、でした。こんなことあるのだろうか。普通は先生だった。たしかに「教授」なのだからそうよばれてもいいのだろうが、会社で「主任!」とか「課長!」の場合の類推なのだろうけれど、かなり非現実的だと思う。今日、大学を卒業してサラリーマンになる人は多いから、みなさん大学のことはよく分かっていると思い込んでいる。4年間の学生生活、短いものだ。教授との接触あるようで無い。特に(ゴメンネ)講義室にはいるよりも、部室あるいはマージャン屋(わたくしたちの時代は・・・・今は何処へ言っているのだろう?アルバイトで忙しい?)にたむろする場合が多かった学生諸君、何も見聞きしないで卒業して行く。そういう人たちが、もしかしてテレビ業界で制作に励んでいるとすれば、間違いは当然のことだろう。実は教授にもいろいろ種類があって、わたくしは理学部出だけれど、医学部や工学部では事情がちょっと違うようである。医学部では、学生が教授室に入り込むことはまあ無い。通常接触するのは助手サン、そこまでもいかなくて、婦長サン(今は師長サン)が普通と聞いたこともある。文系天国ではどうなんだろうか。

だから、わたくしの経験も、理学部のしかも弱小大学の理学部の話だから一般論ではないかもしれな

い。

あまりいい学生ではなかった。成績だってたいしたことはない。でも少しづつ進歩はしたらしい。格好をつけていうと、講義室に於いてではなく、卒研で配属された研究室でわたくしは鍛えられた。だから理論派ではなく、実践派なのである。そういうわけで、この理系天国のお話も、そもそも~~とは、といった明論卓説は狙っていない。迷論愚説かもしれない。恩師はあまりとっつきいい方ではなかった。でも茶飲み話を伺ったことは何回かはある。これが大事なので、噂話の数々、不思議と先生これがお好きだった。わたくしが専攻した化学は、もともとは職人芸みたいなところがある。腕がものをいう、経験がものをいう、そうして人柄がものをいう。だから、噂話は単なるゴシップ以上のものなのである。自分のことを語るのは気が引けるが、先にも書いたとおり、わたくしは30歳前半、地獄に堕ちた。脱出してもとの天国に昇天?するのに五年ほどかかってしまった。地獄に堕ちてから気がついた。この地獄の話し、前に先生に聞いた事あったっけ。思い出した、大先輩のある化学者が堕ちたところ、此処だったんだ。あの時はまさか自分の未来とは全然思わなくて聞き流してしまったんだ。まさしく後悔先にたたず。井上先生は、あいつ聞いていたのに忘れてしまって、と思われたのらしく、私をあわれに思われてか、もう一人の恩師、木越先生が、わたくしを助け出してくれた。

余談ばかりを書き連ねて申し訳ないが、職人の将来は、彼の親方と兄弟弟子の資質にかかっている。怖い親方、優しい親方、腕のいい兄弟子、意地の悪い兄弟子、きさくで親切な兄弟子、ここはなんでもありの世界である。わたくしの出身は某私大の理学部である。大学院修士課程まで進み、そこには博士課程が無かったので、ある国立大学の大学院に進学した。あまり望ましい進路ではない。わたくしの他もう一人、関西の旧帝大大学院に進んだが、だいぶ苦労したらしい。彼は学位を取る前に水難事故で早世してしまった。苦労話をする気は毛頭無いので、ここでは別の話題を披露しよう。わたくしは運が良かった。その頃は核化学の興隆期で、優秀な学生は殆ど原子力業界に就職してしまい、大教授たちは皆新入生の獲得に狂奔する。それで入学できたわけ、つまり外人部隊である。転入学にあたり、古巣の先生たちから、いままでのようなオママゴトじゃ駄目だ、しっかり勉強して頑張れ、と叱咤激励されたものである。このわたくしが頑張れだって?そんなこと無理ですよ、とは思ったけれど結局「眦を決して、ハチマキをして(?)」出かけていった。たしかに、今までとは勝手が違ったことは確かである。しかし、ある面ではなあーんだと思った。ボクはそんなに器用な方ではない、むしろ不器用な学生だったのだ。この頃は滅多にやらないが、化学実験ではガラス細工は必須である。わたくしは一番下手なひとり、実は前述の木越教授、この恩師の上手なこと、あたしゃあ居心地が悪くてしょうがなかった。ほかにもいろいろあって、つまり此処ではボクが一番実験がうまい。誰にも言わなかったが、つまりそういうことだ。これには理由がある。わたくしの出身私大は、いわゆる良家の子弟の通う大学で、だから世間ではお坊ちゃん学校ということになっている。転入学当時、ちゃんと口がきけるのかい?なんて蔭で言われていたみたい。最近でも困ることがないわけでもない。しかしこれは誤解なので、むしろ手を動かすことが奨励され、そのようにカリキュラムが組まれていた。本気にしてもらえないのだが、工作実技として、いろいろな課題があったので、だからわたくしでも、旋盤・ボール盤が扱えるし、ハンダ鏝も使える。烏口を使っての製図も一応はやっている。今となっては寄る年波で手がふるえるから、さあやれ!といわれても困りますがね。

なんでこんな事になったかというと、要するに金が無かったから、先ほどの旋盤、ボール盤で化学実験用のビュレット台を作り、木工で各自ゴミ箱を作り、ブリキ板を曲げてハンダ付け、これでチョーク箱の完成等々。

物のあふれる今日このごろ、手製の道具など馬鹿にされるだけのことだが、重要なことは先ず手工業即ちマニュファクチュアの意義を体感できること、また道具を作ることにより、作業を単純化して考えられることではないかと思う。よく言われることだが、ある実験を企てるとして、この器械がなきゃできない と言ってはならない。もうひとつ、この器械があるから何をするか考えよう というのは推奨できる態度ではない。ここに工作実習の意味があったと思われる。

さて、この節を終わるに当たっての小話をひとつ、わが恩師、お二人ともどこか僻みがあったようn思われる。東大理学部のご出身だったのに、このコンプレックスが独自の教育方針に反映しているのではないか。少々苦労をして学位を取得し、例の地獄に修飾したのち、先生のお宅に挨拶に行った。座敷に通されると、先客がお一人、わたくしが引き合わせて頂く、先生が「彼はね、ウチから**大学へ移ってね、あそこで学位が二十九かそこらでもらえたんだよ、こういう近道もあってね、アハハハハ」ひどい先生だ。そうして地獄行きなんだから。