いかにしてビートルズは日本人に受け入れられていったか その1 | 鳥肌音楽 Chicken Skin Music

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またまた、いただいたコメントからのネタで恐縮です。最初コメ返しで終わらそうと思ったのですが、書いてたらコメの字数制限も超えそうだし、だったらエントリで動画とか交えたほうが良いだろうということで・・・。

今回もかくたさんからいただいたものです。

 
(ビートルズの日本でのデビュー・シングル、「プリーズ・プリーズ・ミー」という説もあり)


>ビートルズの日本での受容

日本でビートルズが紹介された当時、それほど聴いている人間は多くなかったという証言をよく読みますが、

渋谷陽一が中学時代、ホームルームで「ビートルズは是か非か」という討論会をしたら、1対圧倒的多数で渋谷の負けという話をよくしてました。私もそんなもんかと思ってたのですが、山下達郎は桑田佳祐との対談で「ビートルズ来日したとき僕の中学のクラス半分(武道館公演に)行った」と発言しております。



4:30あたりからです。

渋谷は新宿区落合中、達郎さんは豊島区高田中(現千登世橋中)。区は違えどお隣同士の中学校です。在学期間を調べてみましたら渋谷は1964年4月~67年3月。達郎さんは1965年4月~68年3月。1年しか違わない。ビートルズ来日は1966年6月。なんなんだろうなこの差は。


>なんなんだろうなこの差は。

渋谷陽一は「渋谷」、山下達郎は「達郎さん」、”なんなんだろうなこの差は”という気もしますが、そこは今日の本題では無いので置いといて。渋谷陽一の誕生日は1951年6月9日、山下達郎は1953年2月4日ということで歳は2歳差なのですが学年では1年違いですね。

”なんなんだろうなこの差は”とかくたさんは書かれていますが、おそらく答えはわかってらっしゃると思います。その答えはビートルズ以前に日本を席巻したある存在のせいということなのですが、その存在は60年代前半の地方都市いや田舎町の高校生の姿を描いたある小説の中にこんな風に出てきます。

と見るや、雲一つない青空が一瞬にして黒ビーロドの緞帳のごとき闇夜に変わり、それを大きなカミソリで切り裂くように稲妻が走った。

デンデケデケデケ~~~!



ぼくはつむじから爪先に電気が走るのを感じてはっと目覚めた。「電気が走る」といっても別に覚醒剤とは何の関係もない。電気(エレクトリック)ギターのトレモロ・グリッサンド奏法が僕に与えた衝撃のことを言っているのだ。机の上の棚に置いたラジオからベンチャーズの<Pipeline>が流れていた。心臓がそのペースに合わせて、ドッ、ドッ、ドッと高鳴っている。なぜだか股座がふぐふぐする。それはかって全く味わったことのない強烈な感覚であった。

 これは1965年、3月28日の昼下がりのことである。ぼくは15歳。4月から近くの香川県立観音寺第一高等学校に進学することが決まっており、ほんとにのんびりと春休みを過ごしていた。


青春デンデケデケデケ /芦原 すなお


1991年に直木賞を受賞した芦原すなおの自伝的小説「青春デンデケデケデケ」導入部です。

芦原さんは1949年9月13日、いわゆる団塊の世代の最後の学年になります。1965年、高校一年の春の日にエレキ・ギターという雷に打たれた主人公ちっくんはエレキ・ギターに夢中になり、クラシック少年からロック少年に豹変しバンドを結成します。(文中では当時の音楽を「ロック」と表現していますが、個人的見解ではまだ「ロックン・ロール」という言い方だったんじゃないかなと思います)

ちっくん(芦原すなお)がエレキ・ショックを受けた同じ時期に中学2年になった渋谷少年、中学に入学した山下少年も洋楽を聞いていれば恐らくは同じようなショックを受けていたんじゃないかと思います。

>ロックン・ロールに関して誰もがビギナーであった当時の日本において、ベンチャーズは何よりも最高の入門編と言えた。多くの人々がベンチャーズの演奏する豊富なカヴァー・ヴァージョンからアメリカン・ヒット・パレードへの扉を開き、又その分かりやすい演奏形態を模倣する事によって、自らの手で楽器を演奏する喜びに目覚めた。それらを通して、彼等の持つピュアなロックン・ロールのグルーヴが、知らず知らずのうちに日本人の体内に植え付けられて行ったのである。今日我国でこれほどまでにロック・ミュージックが聴かれ、また演奏される様になった経緯については、ベンチャーズ抜きにしては決して語ることが出来ない。(山下達郎 CD『ベンチャーズ・フォーエバー』のライナーノーツより)

>ロックン・ロールに関して誰もがビギナーであった当時の日本

ベンチャーズの日本でのブレイク以前の日本でのロックン・ロールの受容はどんなものであったのか。ちなみにベンチャーズはブレイク前の62年の5月に東芝の招きで初来日をしています。ただしこの時期のベンチャーズは諸事情があってメンバーはドン・ウィルソンとボブ・ボーグルの二人のみで、公演の際には現地のミュージシャンをピックアップしたバンドとして演奏していました。来日公演も同様に東芝がドラムとベースのメンバーを用意したらしいのですがなんとベースはウッド・ベースを持ってきたんだとか。レコード会社御用達のミュージシャンですらロックン・ロールを理解してなっかったということでしょう。それともプレスリーあたりとの勘違いか・・・。



米国のロックンロールからブリル・ビルディングのポップスに呼応する日本の動きといえばロカビリーと漣健児に代表されるカバー・ポップスということになるのでしょうが、イギリスと違いエヴァリーズやバディ・ホリー、ついでに言えばチャック・ベリーも、が抜け落ちていたこともあってか、イギリスのようなコンボ形式のセルフ・インストのバンド・ブームは起こりません。ということでロックンロール・バンドのベンチャーズにウッド・ベースという間抜けな対応になってしまったのでしょう。

ロックン・ロールやポップスやカントリーといったものがごっちゃになって翻訳されたカバー・ポップス・ブームのおかげで日本でのロックン・ロールの理解は欧米とは似て非なるものとなっていた所にロックン・ロールの進化形とでも言うべきビートルズが紹介されても、何が何だかわからないというのが正直なところだったのでしょうね。

>ビートルズのどこが”衝撃的”で、どこが、”いままでと違う”のかがわからなかった人がほとんどだった。とくに、プロのミュージシャンを含め、それまでの音楽業界にどっぷり浸っていた人たちほど、ビートルズが分からなかったのです。
現代の若い世代には信じられないでしょうが、ムッシュかまやつ氏から聞いたところによると、64年にはほとんどの日本人プロ・ミュージシャンは、「抱きしめたい」「プリーズ・プリーズ・ミー」で使われるウラ拍(シンコペーション)が弾けなかったのです。世代交代の波は、この頃深く静かに起こっていたのですが、それが表面化するのはまだまだ先のことでした。
(恩蔵茂「日本で起こった”ビートルズ現象”の実像」レコードコレクターズ誌2月号より)

>ウラ拍(シンコペーション)が弾けなかった

テキストとしてはやはり大瀧さん監修のCDも出ている東京ビートルズでしょうね。

東京ビートルズ


>それが表面化するのはまだまだ先のことでした。

ロック・サーフィン・ホット・ロッド/内田裕也&尾藤イサオ


理解不可能なビートルズではありましたが、その歌と演奏を聴き自分たちのやってることが古臭く思えたのかロカビリー周辺で活動していた歌手、バンドが中心となって新しいリズム「サーフィン」をピック・アップしてムーヴメントを起こそうとします。ただここでいうサーフィンなのですが当時の代表的アルバムと思われる『ロック・サーフィン・ホット・ロッド』の収録曲(「ホワット・アイ・セイ」「トラブル」「ツイスト・アンド・シャウト」「ブルージン・バップ」「ブルー・スエード・シューズ」「ワン・ナイト」「シェイキング・ロック」「ルシル」「ダイナマイト」「キープ・ア・ノッキン」「アイ・ウォント・ユー・ウィズ・ミー」「天使のハンマー」「スイムで行こう」「 ローラに好きだと云ってくれ」)をみても、いわゆる「サーフィン・ミュージック」とは程遠く、アメリカで流行っている「サーフィン・ミュージック」の名前だけ借りて自分たちに馴染みのあるロックンロールを歌ってみましたっていうだけ、ここでもまた都合よく翻訳しちゃったという感じでしょうか。

ツイスト・アンド・シャウト 内田裕也とブルー・コメッツ、ブルージーンズ、尾藤イサオ


ボーカリストとバック・バンドという形はロカビリー/カバー・ポップス時代と同じなのですが歌はオリジナルとおりの英語で歌われていますね。それにバックもブルージーンズとブルコメということで東京ビートルズに比べるとずいぶんロックンロールらしくなっています。それにしても、僕には内田裕也という人が何でああいう位置にいるのかよく分からないというか、どう聞いても尾藤イサオの方が上手いですよね。

さて、相変わらずの曲解の「サーフィン」ムーヴメントなのですが、翌年のエレキ・ブームにつながっていく2つの出来事が起こります。

ひとつは、ムーヴメントに正当性を持たせるため(!?)に海外からバンドを招聘し日本勢を交えて後楽園アイスパレスで9/16-27に渡り開催されたフェスティバル、「世界・サーフィン・パレード」でした。イギリス、西ドイツ、スウェーデンからロックンロール・バンドが来日したようなのですが、まずこの選び方からして全然「サーフィン」じゃないですよね。まぁそれは置いといて、この時にイギリスからやってきたのが日本側で勝手にリヴァプール・ビートルズと名付けられたリヴァプール・ファイヴ。

このリヴァプール・ビートルズの来日によって日本人はおそらく初めてビートルズ以降のコンボ・スタイルのビート・バンドを体験することとなります。

と書いていて気づいたのですが、頭にアップしたビートルズの「抱きしめたい」のシングルにはビートルズ=コーラスと書かれています。ひょっとしたら当時の東芝のスタッフはビートルズは単に歌を歌うコーラス・グループで演奏は別のバンドがやっていたと思っていたのかもしれないですね。


(東京ビートルズとリヴァプール・ビートルズ)


もうひとつは「サーフィン」ムーヴメントの中からアストロノウツの「太陽の彼方に」という大きなヒットが生まれたことです。



ヒットした要因として、もともとギター・インストだった曲に覚えやすく印象に残る”ノッテケノッテッケ”という日本語詞をつけた藤本好一のカバー・ヒットがあったことも忘れてはいけません。



藤本のカバーが強烈なせいでアストロノウツを聴いてもノッテケノッテケとしか聞こえないですね、恐ろしい。歌詞をつけたのはタカオ・カンベという人で「網走番外地」なんかを書いている人なのですが、歌詞の世界のあまりの振れ幅と両方テイチクの発売ということで、キングの音羽たかしと同じようにテイチク社員による偽名じゃないかと思います。

と、ここまで書いてきましたが、ちょっと長くなってきたので続きは後日としたいと思います。