鳥肌音楽 Chicken Skin Music

WRITING ABOUT MUSIC IS LIKE DANCING ABOUT ARCHITECTURE.



posted by sugarmountain
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Laura Nyro- And When I Die


そして わたしが しんで さってしまうときに
ひとりのこども が うまれる
そうして せかいは つながっていく つづいていく

わたしがしぬとき ひとりのこどもが うまれる
わたしがしぬとき ひとりのこどもが うまれる


11日、グラミー授賞式の舞台となるビバリー・ヒルトン・ホテルでホイットニー・ヒューストンが急逝し、13日のグラミーでアデルが主要3部門を含む6冠に輝いたというニュースを読みながら頭の中では「アンド・ホエン・アンド・アイ・ダイ」が鳴っていました。

直接的ではないかもしれないけれど、アデルも、グラミーでホィットニーのトリビュート・ステージをこなしたジェニファー・ハドソンも”one child"なんだろうし、もっと突き詰めればホィットニーが歌ってきた”歌”こそが”one child"なんだと思います。

Charles Trenet - L'âme des poètes (Longtemps, ...)


詩人たちが亡くなった後も
ずっと ずっと ずっと長い間
詩人たちのシャンソンはまだ街に流れている
人々は作者の名前も知らぬまま
誰のために胸がときめくのかも知らずに
ぼんやりと 彼らの作ったシャンソンを歌う
ときには 歌詞の言葉やフレーズを変えて
言葉を忘れたときには
人はララララララと歌う
ララララララと

詩人たちが亡くなった後も
ずっと ずっと ずっと長い間
詩人たちのシャンソンはまだ街に流れている
いつか きっと そう 僕がいなくなった後も
いつか 人々は悲しみを和らげようと
いくつかの宿命的な幸せを育もうと
一人の物乞いに生きる意欲を与えたり
子供を寝かしつけるように
歌は 春の水辺で
プレーヤーの上で くるくる回るだろう

詩人たちが亡くなった後も
ずっと ずっと ずっと長い間
詩人たちのシャンソンはまだ街に流れている
彼らの軽やかな魂とシャンソンは
人の心を楽しくも悲しくもできるのさ
若い娘でも 青年でも
ブルジョアでも 芸術家でも
それが宿無しであろうと



R.I.P.

posted by sugarmountain
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(not second a time先輩からコメントで貴重な情報をいただきあらためて調べていく中でレココレ増刊の「ザ・ビートルズ・ソロ・ワークス」が自宅にあることに今頃気づき、その中のレコーディング・セッション・リストなどを参考に更に追記および動画の追加を行いました。)

$鳥肌音楽 Chicken Skin Music


ジョン・レノンのファンであればご存知かとは思いますが1973年の10月から1975年の1月までジョンとヨーコは別居生活を送っています。現在「失われた週末Lost Weekend」と呼ばれる期間なのですが、一般的な理解としてはジョンがヨーコと別れLAに出向きニルソンやリンゴやキース・ムーンと呑んだくれて放蕩の限りをつくしていたが、さすがに自分の愚かさに気づきヨーコに謝罪しよりを戻す迄の時期というものなのではないかと思います。

僕は「愛と平和」の使者=ジョン・レノンというのはジョンの死後にヨーコによって必要以上にデフォルメされたものだという考えを持っていて何度かこのブログでもそのことを書いてきました。同じようにこの「失われた週末」もジョンの死後、いやその前からジョンの正史からはできるならば削除してしまいたい期間としてジョン・サイドというかヨーコ・サイドからはほとんど語られる事が無かったように思われます。実際ヨーコの発言の中に「失われた週末」における最重要人物であるメイ・パンのことがまったく出てこないというのはあまりにも不自然な気がします。男性による女性差別について「女は世界の奴隷か」という歌をジョンに歌わせたくらいの「超フェミニスト」のヨーコですからメイ・パンをジョンの「慰安婦」として帯同させたなんて、そりゃ言えないですもんね。

まぁメイ・パンの言っていることも100%真実であるかどうかは神のみぞ知るなのかもしれませんが、それを考慮するにしても現在の「失われた週末」に対する情報はあまりにも少なく偏りすぎている気がずっとしていました。そこで、手持ちの資料にはなりますが、「失われた週末」の期間に一体何があったのかを時系列に沿ってかき集めてみました。

こうして見ると音楽家ジョンという観点から眺めるとこの「失われた週末」という期間が如何に活動的で実りの多い期間であったかということがお分かりいただけるのではないかと思います。決して「失われて」なんかはいない、そう思いませんか・・・


1972年11月7日
マクガバンが大統領選挙に破れた夜、ジョンとヨーコはジェリー・ルービンのパーティに招かれる。NY中のリベラリストが集まった様なパーティでジョンはしこたま酔っぱらいとある女性とロッカー・ルームに閉じこもってしまう。ジョンと女性の行為は薄い壁を筒抜けでヨーコは強いショックをうけます。この出来事によってジョンとの間の「何か」が失われてしまったと感じたヨーコは自分の気持ちの整理を付けるためにジョンと別居し冷却期間を置くことを考え出します。

1973年3月
合衆国出入国管理当局から国外退去が命じられる。ジョンの68年の麻薬不法報所持による。

1973年3月
自身で何度かデモ録音していた「アイム・ザ・グレーテスト」をリンゴ・スターの新しいアルバム『リンゴ』に提供することを決め、サンセット・スタジオの『リンゴ』セッションに参加。メンバーはジョン(P、Vo)、リンゴ(Dr)、ジョージ・ハリスン(G)、クラウス・ヴーアマン(B)というほぼビートルズなメンバー。この歌ジョンが歌っていたらシャレにならないですもんね、リンゴで正解(笑)。

1973年7月~8月
アルバム『ヌートピア宣言Mind Games』のためのセッションがNYのスタジオ、レコード・プラントで行われる。プロデューはジョン自身。

☆そして、ここから「失われた週末」が始まります。

1973年10月
ヨーコの提案により別居生活に入る。ヨーコ曰く「愛するがゆえに分かれる」。

『アンソロジー』のブックレットによればベッドの中でヨーコはジョンに告げます。

>”私たちはふたりともまだ若くて魅力があるのに、結婚しているというだけの理由でおたがいのなかに閉じこもってしまうなんて、とんでもないわ、そんなの私はいや。私たちらしくないわ、そうでしょ。離れてみて、どうなるか見てみましょうよ。””ロスへ行ってみるのはどうかしら?昔ビートルズのツアーで行って、楽しかったって話していたじゃない・・・。」

ヨーコの提案をしぶしぶ受け入れたジョンは最初の4日間は有頂天になっていたが5日目には早くも泣きを入れてきたとヨーコは回想します。

>”もう十分だ、家に帰りたいよ”私は笑い飛ばしました、あまりに早すぎたからです。

メイ・パンの著書「失われた週末」によれば、別居の始まりはこんな具合です。

>ある朝早くレノン夫妻の住むダコタ・ハウスの中にあった私の仕事場に、ヨーコが入ってきました。ヨーコは私に、ジョンと「うまくいっていない」ことを打ち明けました。<中略>ヨーコは続けてジョンは誰かほかの人と一緒に暮らすことになるだろう、その相手は「ジョンをうまく扱うことのできる人」であってほしい、と言いました。<中略>ヨーコはさらに続けました。「あなたボーイ・フレンドいないわよね」。私はペンとメモ用紙を落としてしまいました。聞き間違いではないかしら?私はヨーコに、こちらの一方的な勘違いかもしれないけれど、私はジョンに対して特別な感情はいだいていません、と念を押しました。ヨーコはそれは承知だと言いながらも話をやめませんでした。「あなたがジョンと一緒になるといいと思うの」。私は呆然としてしまいました。お断りします、私にはできませんと何度も言いました。でもヨーコはすっかり心を決めているようでした。「ジョンから誘われたら断らないようにね!」というヨーコの言葉には、単なる提案以上の強さが込められていました。

この半月後位にエレベーターの中でジョンに抱きしめられ、キスをされ「こうなる日をずっと待っていた」と告白されます。何度かジョンの誘いを断ったもののジョンの強引さに負け関係を持つことになります。そうしてNYで二人の関係が始まりますが、ある日ヨーコがフェミニストの会合に出席するためにNYを留守にした時に、たまたま弁護士のハロルド・シーダーもLAに向け出発しようとしていました。ジョンは突然思いついたように”NYを離れ二人で暮らそう”といいハロルドに同伴しLAへ旅立ちます。

鳥肌音楽 Chicken Skin Music

1973年10月
メイ・パンと共にLAに赴いたジョンはビル・ワイマンとアンドリュー・オールダムと会います。アンドリューはベルエアのルー・アドラーの家を借りていたが、ロンドンに戻るのでそこに住めるようにルーに交渉し、ジョンとメイは約2ヶ月そこで暮らすことになります。

1973年10~12月
LAスにて『ロックン・ロール』のための録音を開始。プロデュースはフィル・スペクターに依頼。過去のフィルとの共同作業はアスコットやNYのスタジオというジョンのホームで行われましたが、今回はフィルのホームであるLAでの録音。NYと違うルーズさでジョンはいつも呑んだくれた状態でスタジオに入り、フィルもその奇人ぶりを遺憾無く発揮したためセッションは混乱を極め、手を焼いたジョンはアルバム制作を一時棚上げにしてしまいます。
この時のセッション・メンバーはジェシ・ディヴィス(EG)、ホセ・フェリシアーノ(AG)、リオン・ラッセル(Key)、ジム・ケルトナー(Dr)、ニノ・テンポ(Sax)、ゲストにスティーヴ・クロッパー(G)、ハル・ブレイン(Dr)、ジェフ・バリー、バリー・マン(Cho)というもので、きちんとやってくれていたらなぁと思うのは僕だけ?

1973年10月
『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』の評論家からの酷評、売上の低迷に凝りていたジョンは積極的に発売間近の『ヌートピア宣言Mind Games』のプロモーション活動を開始します。ロスで再会したアップル・レコード総支配人トニー・キングの忠告もジョンに影響を与えていました。曰く”今、世間は君のことを批評ばかりする過激なやつだと思っている。それではレコードの売上も期待できない。必要なのは昔のように陽気で、ユーモアがあって、みんなから愛されたジョン・レノンに戻ることだ。”。そしてトニーはジョンのイメージ回復の手助となる効果的なインタビューの機会ををセッティングしている。

マインド・ゲームス (リミックス&デジタル・リマスタリング)/ジョン・レノン
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1973年10月
息抜きをかねてジョンとメイ・パンはラスベガスへ小旅行。トニー・キングやマイケル・ヘイゼルウッドを呼び寄せファッツ・ドミノ(前座はフランキー・ヴァリ)のショウなどを楽しみます。この時ラスベガスのステージに立つフランク・シナトラに歌わせたくて「愛の不毛Nobody Loves You When You're Down And Out」をジョンは作ります。


John Lennon - Nobody Loves You When You're Down And Out


1973年11月2日
アルバム『ヌートピア宣言』発売。

1973年11月2日
リンゴ・スターのアルバム『リンゴ』発売。ジョン、ポール、ジョージが楽曲を提供しミュージシャンとしても参加。4人揃っての共演はないが大きな話題となる。

リンゴ/リンゴ・スター
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1973年12月
LAのジョンとメイ・パンの元へ離れて暮らす息子ジュリアン・レノン(10歳)と前妻シンシアが訪れる。この時ジョンは4年近く息子とあっておらず最初は気まずさも感じる再会でしたが、この再会がきっかけとなりジュリアンはたびたびジョンの元に訪れ親子の関係は修復されていきます。

鳥肌音楽 Chicken Skin Music

この時にジュリアンとジョンがお遊びでモーリス・レヴィの管理楽曲である「YaYa」を録音。「カム・トゥゲザー」での盗作判決の穴埋めとして『心の壁、愛の橋』に収録されることに。

1974年1月
”これまで、僕はビートルズの話をするのが嫌だった。だが今ではそういう気でもなくなってきた。現在、どんなことでも起こりうる可能性がある。近い将来、我々4人で何か素敵なことをするかもしれない。”ロサンジェルス・タイムス紙のインタビュー。『リンゴ』の発売もあり、再結成の噂がまことしやかに囁かれる。

1974年2月16日
メロディー・メイカー誌が”ビートルズ・トゥゲザー・アゲイン!”という特大見出しでビートルズ再結成を予測。ポールの再結成を匂わす発言、ジョン、ジョージ、リンゴがアレン・クラインを馘首したこと、1月に4人がニューヨークで一同に会した(噂のみ)ことがその理由。

1974年3月
ニルソンらとともに泥酔し暴れたためロスのトゥルバドール・クラブからたたき出されたことが記事になる。出演中のスマザーズ・ブラザースに悪態をつき、ウェイトレスに暴行を振るったとのこと。

1974年3月 
NYのプロモーター、ビル・サージェントがビートルズ再結成の一夜公演に42億のギャラを申し出る。ジョンもポールも無視。

1974年3月28日
ジョンがプロデューサーとなりニルソンのアルバム『プシー・キャッツPussy Cats』の録音がLAのバーバンク・スタジオで開始される。この日の夜遅くNYに来ていたポール・マッカートニーとリンダがひょっこりと姿を見せます。ジョンとポールはビートルズ解散後、最初で最後のジャム・セッションを行います。途中からはスティーヴィー・ワンダーも加わったというこのセッション、テープが回っていればなぁ。

(追記:と書きましたが、しっかりテープが回っていたようで、過去に『A TOOT AND A SNORE IN '74』というタイトルのブートレグも出たことがあるようです。ジョンとポールにスティーヴィー・ワンダー、ニルソン、ジェシ・ディヴィス、ジム・ホーンが参加してのジャムのようです。演奏はかなり荒いですが音源がアップされていましたのでどうぞ)

Lucille~Stand By Me




鳥肌音楽 Chicken Skin Music

1974年4月or5月
ミック・ジャガー(Vo)、ダニー・コーチマー、ジェシー・デイヴィス(G)、ジャック・ブルース(B)、アル・クーパー(Key)、ジム・ケルトナー(Dr)、ハリー・ニルソン(Vo)というメンバーによる「トゥー・メニー・クックス」をプロデュースする。この音源は永らく未発表のままでしたが2007年に発売されたミック・ジャガーのソロ活動をまとめたベストアルバムに収録され陽の目を見ています。

ヴェリー・ベスト・オブ・ミック・ジャガー/デヴィッド・ボウイ
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1974年5月
LAで行われていた『プシー・キャッツ』のセッションですが、スタジオ内はセッションかパーティか分からない状態で、結局、きっちりとした仕事のできる慣れ親しんだNYのスタジオ、レコード・プラント・イーストにスタジオを移動し完成させることになります。その後NYのRCAのケン・グランシーのオフィスに赴きアルバムを必ず発売することを確約させます。ジョンは願いを聞いてくれるならアップルとの契約が切れたらリンゴを誘って自分もRCAに移籍するとまで発言したとか。確かにリンゴはRCAに移籍しましたが・・・。

NY滞在中ジョンとメイは東52丁目434番地のペント・ハウス・タワーBというアパートで暮らします。ベッド・ルームには当時最も大きかった27インチのソニー・トリニトロンTVを設置し二人はそこで心からリラックスできたようで「夢の夢」のヒントもそのベッドの中で生まれました。この部屋にもポールとリンダなど多くの友人たちが訪問していますが、ジョンにとって一番の訪問者は離れて暮らす息子ジュリアンでした。メイの写真には少年期(11歳)を迎えた息子と海でたわむれる父親ジョンの姿がとらえられています。

鳥肌音楽 Chicken Skin Music

1974年6月
メイ・パンと暮らすLAの借家で新曲のデモ録音。多くの曲はアルバム『心の橋、愛の壁』の収録曲となる。中にはリンゴに提供される「グッド・ナイト・ウィーン」も。(この時期、ジョンはNYにいたと思われ「LAの借家」というのは引用元のレココレ増刊「」ビートルズ・ソロ・ワークス」の間違いか?)

1974年6月
『プシー・キャッツ』を完成させた後、『ロックン・ロール』のセッションを再開しようとしますが、フィルがLAで録音したテープを持ったまま行方不明状態に(オートバイ事故で入院していた)あったため断念。そこで書き溜めていた新曲を元にオリジナル・アルバム『心の壁、愛の橋Walls And Bridges』の録音に取り掛かります。キャピトルはジョンの子供時代に描いた画を使い『ロックン・ロール』のジャケを制作していましたが、むしろ新しいアルバムにぴったり来るということでジョンはこのデザインを『心の壁、愛の橋』に流用しようと考えます。しかしキャピトルはジョンのアルバムだとひと目でわかるポートレイトを使うことを主張し、それを呑んだジョンはメイ・パンを使ってフォト・セッションを行います。ところがアート・ディレクターの要望する写真が素人カメラマンであるメイ・パンのカメラでは取れないということになり、最終的にボブ・グルーエンによる写真がジョンの画とともに使用されることとなります。

鳥肌音楽 Chicken Skin Music-鳥肌音楽 Chicken Skin Music


1974年7月17日
合衆国司法局より60日以内の国外退去を命じられる。ジョンは控訴。

1974年7月中旬
NYレコード・プラント・イーストでニュー・アルバムのためのリハーサル・セッションがスタート。ジョン(G)、ジェシ・ディヴィス(G)、クラウス・ヴーァマン(B)、ジム・ケルトナー(Dr)。この時の音源は『アンソロジー』で聴くことができる。

1974年8月
ジョンがプロデュースをしたニルソンのアルバム『プッシー・キャッツPussy Cats』発売。

プシー・キャッツ/ニルソン
¥2,500 Amazon.co.jp

1974年8月
先のリハーサル・メンバーにエディ・モットー(AG)、ケン・アッシャー、ニッキー・ホプキンス(Key)、リトル・ビッグ・ホーンズ(Horn)が加わりレコード・プラントで『心の壁、愛の橋』セッションが行われる。後半ではエルトン・ジョンも参加し「真夜中を突っ走れ」が録音される。

1974年8月9日 
ウォーター・ゲート事件によりニクソン大統領が辞任。

1974年8月下旬
『心の壁、愛の橋』のレコーディングを終えたジョンはLAへ飛びリンゴの『グッド・ナイト・ウィーン』のセッションに参加。デモ録音していた「グッド・ナイト・ウィーン」を提供し、カバー曲「オンリー・ユー」(最高!)のアレンジ、ガイド・ヴォーカル録りを行う。

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1974年8月31日
司法局の国外追放命令はニクソン政権による不当な圧力によるものとNY連邦裁判所に訴える。ジョンがベトナム反戦運動の指導者の一人であり72年の党大会を阻止しようとしたことに対する共和党の報復だというもの。アビー・ホフマン、ジェリー・ルービン、ジョン・ビールといった急進的な活動家との交流もありダコタ・ハウスのジョンの部屋には複数の盗聴器がしかけれていたという。

1974年9月
74年はビートルズのアメリカ上陸から10年にあたります。この年キャピトルはビートルズに脚光を当てたキャンペーンを行なっていました。そんな中、元ビートルズのジョンのニュー・アルバムが発売されるとあって、キャピトルは最大限のプロモーションを行うことになります。題して「この~を聴け(Listen To This ~)」というキャンペーンでListen To This ~というコピーが上段、中段にはジョンの目許の写真、下段には「ジョン・レノン 心の壁、愛の橋」の文字というデザインが様々な場所に描かれました。「この~を聴けの」の~には媒体に合せ”ポスターを聴け”や”雑誌を聴け”、”バスを聴け”(バスの車体広告)、”Tシャツを聴け”といった具合です。TVコマーシャルも作られ、リンゴ・スターが出演、このお礼としてジョンは『グッド・ナイト・ウィーン』のTVCMに出演します。


1974年9月14日
”ジョン・レノンなんて全然革命的じゃない。奴は呆れかえる程の大馬鹿、白痴だ。ただ革命、革命って叫んでるだけで、行動ときたら・・・・だもんな。人の気も考えて欲しいよ。皆あいつには気分が悪いんだよ。”メロディ・メーカー誌によるトッド・ラングレンのインタビューより。

1974年9月26日
”貴方が私に対してアタマにきている本当の理由は分かっている。LAのレインボウであなたと一緒になったとき、私が貴方を誰だか分からなかったからなのだ。メロディ・メーカー誌によるインタビューより。

1974年9月
『ヌートピア宣言』発売の際に貴重な忠告をくれたトニー・キングをアメリカに呼び寄せます。そしてリンゴとともにEMI/キャピトルのCEOバスカー・メノンに手紙を書きキャピトル内に立派なオフィスを設けさせます。ジョンは信頼していたキャピトル副社長でヒットを探す達人アル・コーリー、トニー・キング、メイ・パンを集めアルバムからのシングル・カット曲を検討します。最有力候補「夢の夢」をはじめ「予期せぬ驚き」から「ようこそレノン夫人」まで候補に挙げられますが最終的にアルが選んだ「真夜中を突っ走れ」に決定されます。ジョンはこの曲のヒットに半信半疑でしたが、結果はアルの耳の正しさが照明されることとなります。

鳥肌音楽 Chicken Skin Music

1974年9月
メイ・パンは第1回ビートルズ・コンベンションに赴きます。『トゥー・バージンズ』がこれ以上市場に出回らないように買い占めるようにジョンから頼まれていたメイ・パンは会場でドイツの写真かユルゲン・フォルマーによる61年にハンブルグで撮られた写真を見つけます。ジョンにそのことを電話で報告すると旧知であるユルゲンにぜひとも会いたいということになり後日ユルゲンは当時の写真を持ってアパートに訪れます。『ロックン・ロール』のジャケ写はこうして決まったというわけです。

この再会の後メイ・パンと知り合いのレストラン・オーナー、リチャード・ロスのが所有するNY州エレンビルにあるロッジでジョンとメイ・パンは休暇をすごすことにしました。気持ちのいい秋の日ジョンはお気に入りのアイリッシュ・ニット・セーターを着てリチャードの飼い犬を連れ山道を散歩します。前を歩くジョンに声をかけ振り向いた瞬間を、メイ・パンが写真に撮ります。この写真を気に入ったジョンは75年10月24日(メイ・パンの誕生日)にイギリスで「イマジン」のシングルが発売される際にジャケ写として使用しています。

鳥肌音楽 Chicken Skin Music-鳥肌音楽 Chicken Skin Music


1974年10月4日
シングル「真夜中を突っ走れ」とアルバム『心の壁、愛の橋』を発表。「真夜中を突っ走れ」は11月16日にソロになって初めての1位曲となる。録音にはエルトン・ジョンが参加。その時にもし1位を獲得したらエルトンのライヴにゲストで出演するという約束が交わされていた。

1974年10月
アルの努力で無事取り戻されたLAでの『ロックン・ロール』のテープでしたが、ジョンはそのテープを封印し新たに『心の壁、愛の橋』のミュージシャンを使いセッションを再開することを思い立ちます。それを聞きつけたモーリス・レヴィは自分の農場をリハーサルのために提供、『ロックン・ロール』セッションが再スタートされます。

1974年10月21日~25日
レコード・プラントに閉じこもり5日間で『ロックン・ロール』を完成させる。ジョンがこの時期いかに充実した仕事をしていたかは、この辺からもうかがえると思うのですが・・・。また『心の壁、愛の橋』でいったんボツにした「ようこそレノン夫人Move Over Miss.L」を再び取り上げアルバムから3月にシングル・カットされた「スタンド・バイ・ミー」のB面曲として収録(UK盤)。

1974年11月
ジョンとポールの二人は一時期の険悪な雰囲気は消え昔の仲を取り戻しつつありました。それにともないビートルズに対してもセンチメンタルな感情を持つようになっていました。ジョンは、友人ロバート・スティグウッドがプロデュースしていたオフ・ブロードウェイ・ミュージカル「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド・オン・ザ・ロード」にも積極的に関与していきます。リハーサルを訪問し助言を行なったり、あらゆる機会に作品を絶賛。はてはBBCが撮影するプロモ映像への出演も快諾しNYの街角を歩き市民と触れ合うジョンの姿が撮影されます。

この時の映像はYOUTUBEにアップされている「マインド・ゲームス」の動画(これオフィシャルのプロモなんですかね、誰かご存知ないですか)で見ることができます。そう思ってみると3分19秒あたりからミュージカルの劇場前の風景や、ミュージカルのステージでおどけるジョンの姿が映っていますよね。

John Lennon / Mind Games


1974年11月28日
NYのマジソン・スクエア・ガーデンで行われたエルトンのコンサートに飛び入りで参加。「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」「真夜中を突っ走れ」「アイ。ソー・ハー・スタンディング・ゼア」をエルトンと共演。「アイ・ソー・ハー~」を歌う前には”親友ポールの歌を歌います”というMCをつけていた。このステージがジョンにとっての観衆を前にしての最後のライヴということになった。

Here & There/Elton John
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このコンサートにはヨーコも訪れておりジョンとの再会を果たしています。

>YOKO”まずエルトンが出てきて歌ったの。<中略>そこへジョンが出てきたら、あのマディソン・スクエア・ガーデンのホールが揺れるの。みんなが飛び上がったり、拍手したり、叫んだり、わめいたり、とってもすごかったのよ、本当に文字通り床がふるえていたわ。<中略>でもその時見たジョンはわたしの知っていたジョンとは違って、ほんとうに淋しそうな孤独な感じだったのよ。”

>JOHN”聴衆の中に彼女がいるとは知らなかった・・・・彼女が来ると分かっていたらとても僕は行けなかっただろう・・・・ステージから戻るとそこに彼女がいてね、お互いをじっと見たんだよ。まるでインディカ・ギャラリーの場面の再現みたいで、それでその晩から僕たちはまた一緒になった。あの時期は幸福な想い出ばかtりだよ。

この時エルトンのコンサートにジョンが飛び入りすることを知って、ヨーコをその場に行くように教えたのは他ならぬポール・マッカートニーだったことをヨーコは2010年になって初めて明かします。

1974年12月16日
英国デイリー・メール紙がジョンの国外追放命令は前大統領ニクソンとホワイト・ハウスによる陰謀だったという記事を掲載。ニクソンの個人的な判断により国外追放の司令を政府関係期間に発していたという事実が明らかにされる。

1974年12月19日
すでに解散状態にあったビートルズですがEMIとの契約の関係もあり法的にはまだ存続していることになっていました。実質的な解散から4年で法的な問題はほぼクリアされ解散のための書類にリンゴは既にイギリスでサイン済みであったので残り3人がNYで集まりサインをすることになっていました。ジョージはダーク・ホース・ツアーでNYに来ており、ポールとリンダもこのために渡米し、席につきましたがNYに住んでいるジョンが現れません。しびれを切らしたジョージがジョンに電話をいれますが電話に出たのはメイ・パンで、ジョージはジョンへの文句を述べたあとジョンがマジソン・スクエア・ガーデンでのジョージのコンサートに飛び入りするというプランも必要ないと伝えます。

翌日ポールとリンダがジョンを訪問します。ポールに諭されたジョンは書類にサインをすることを承諾します。

ジョンに対して激怒していたジョージですが、クリスマスに合せジョンの元へ訪れ、ジョージのコンサートにもやってきたジュリアンに対しジョージはすべてを水に流すからパーティに来てくれる旨を伝える電話をジョン宛にさせます。そしてコンサート後のパーティではジョージとジョン、ポールが固いハグを交わすこととなります。

鳥肌音楽 Chicken Skin Music

翌日からジョンとジュリアンとメイ・パンはクリスマスをフロリダで過ごすため旅立ちます。

1974年12月21日
シングル「夢の夢No.9 Dream」全米チャートで最高位9位となる。”9という数字が好きだ。自分の生まれた日だし、数字の中で一番大きいし”。

1974年12月29日
フロリダのジョンの元にアップルの弁護士から解散のための書類が届きます。その書類にジョンがサイン、この瞬間ビートルズは法的にも解散します。

1975年1月
メイ・パンによればエレンビルから戻ったジョンはそれまで以上に精力的に仕事をこなしていきます。『心の壁、愛の橋』のプロモーション、『ロックン・ロール』のレコーディング、エルトン・ジョンのコンサートへの飛び入り、デヴィッド・ボウイと「フェイム」を共作、そしてニュー・オリンズでポールの『ヴィーナス・アンド・マース』のレコーディングに参加する予定まであったようなのです。結局は時期尚早ということで見送られたようですが、もし・・・・。

ジョンはロング・アイランドでメイ・パンと住むための家を不動産業者に探させていたといいます。そして物件は見つかり2月には仮契約を結ぶ手配になっていたとメイ・パンは回想しています。

1975年1月
上記のメイ・パンの回想とは矛盾しますが、ジョンはヨーコの元に戻ります。”別居はうまくいかなかった”とはジョン・レノン談。

☆☆ これにて「失われた週末」はエンドとなります。

1975年1月
ポール・サイモンがジョンのグリーン・カード獲得闘争を精神的に支援すると表明。

1975年2月17日
アルバム『ロックン・ロール』発売。

1975年3月
前月に発売された『ロックン・ロール』のプロモーションのため「スタンド・バイ・ミー」「スリッピン・アンド・スライディン」のビデオ撮りのためレコード・プラント・イーストで生演奏を行なった。



余談ですが、このプロモがジョンの死を伝えるニュースとともに最も流されたことが、「スタンド・バイ・ミー」がジョンの代表曲となるのに一役をかったに違いありません。なんでこの曲だったんでしょうね、本来であれば『ダブル・ファンタジー』の曲であっても良かったのに。まぁ「イエスタデイ」が流されるよりはずっとマシですけど、多かったですもんね、ジョンの曲を流せよってちょっと頭に来てました。

1975年3月5日
デビッド・ボウイのアルバム『ヤング・アメリカン』発売。NYでジョン・レノンとともに録音された「フェイム」「アクロス・ザ・ユニヴァース」が収録されていた。

ヤング・アメリカンズ/デヴィッド・ボウイ


1975年4月18日
ATVのスペシャル番組「サリュート・トゥ・リュー・グレイド」の為に生前最後となるライヴ・パフォーマンスを行う。8人組のバンドを従えアコギを弾きながら「スタンド・バイ・ミー」と「スリッピン・アンド・スライディン」「イマジン」を歌う。6月の放映時には「スタンド・バイ・ミー」はカットされていた、残念。(not a second time先輩、情報ありがとうございます。)



 「イマジン」はコチラから 

1975年10月7日
裁判所により国外追放命令は破棄され3年に及ぶ闘争は終結(76年7月27日グリーン・カードを取得)。

1975年10月9日
ヨーコとの間の第一子ショーンが誕生。


こうやって見てみると、この時期運命の歯車がもう一回りしていたらビートルズの再結成、そこまでいかなくてもジョンとポールの共作っていうのがあったかも知れないですね。あっそうかそれが失われたのか(笑)。誰のせい?


以上。

参考文献、引用元は 
メイ・パン著「ロスト・ウィーク・エンドInstamatic Karma」
アンディー・ピープルズ著「ジョン・レノン・ラスト・インタビュー」
シンシア・レノン著「ジョン・レノンに恋して」
ミュージック・マガジン増刊「ジョン・レノンを抱きしめて」
レコード・コレクターズ増刊「ザ・ビートルズ・ソロ・ワークス」
ジョン・レノン・アンソロジーBOXブックレット
ウィキペディア(日米) 他です。

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さて、not a second time先輩からいただいたコメントにもありましたが、ブライアン・ウィルソンが入ったビーチ・ボーイズが久々に活動を再開いたします。昨年が結成50周年、そして今年が(メジャー)デビュー50周年を記念しての活動再開でまずは13日のグラミー授賞式でのマルーン5、フォスター・ザ・ピープルとのスペシャル・セッションでお披露目となり、6月以降はツアーも行うようです。

上の写真が現在のBB5のメンツなのですが、左からブライナン・ウィルソン、デヴィッド・マークス、ブルース・ジョンストン、アル・ジャーディーンそしてマイク・ラヴ。おやじバンドを通り越しすっかりじいちゃんバンドになっちゃってますね、昔からじいちゃんぽかったアルはあんまり変わっていませんが(笑)。

マルーン5、フォスター・ザ・ピープルもロス出身のポップ・バンドですからステージは大先輩に対するトリビュート的なものになるのかなと思います。とくれば初期のサーフィン/ホットロッドのヒットを中心にしたサンシャイン・メドレーをやってくれるんじゃないでしょうか。マイクの猿踊りも見れますよ、きっと。

では本題に、67年、この1週間のスマイルです。


1967年2月3日(金) スマイル・セッション53 英雄と悪漢・セッション16
ウェスタン・レコーダーズ・スタジオ3st 、カリフォルニア州ハリウッド 


またもやBB5メンバーによる「英雄と悪漢」のボーカル・セッションが行われる。

1967年2月7日(火) スマイル・セッション54 英雄と悪漢・セッション17
コロムビア・スタジオ、カリフォルニア州ハリウッド (10:00-10:45PM)


「英雄と悪漢」にトミー・テデスコによるギター・パートを追加後、昨日のボーカルをオーバー・ダブ、わずか45分でセッションは終了。

1967年2月8日(水) スマイル・セッション55 
コロムビア・スタジオ、カリフォルニア州ハリウッド 
 

デニス・ウィルソン、マイケル・ヴォッセ、ヴァン・ダイク・パークスが参加して「サーフス・アップ」のトラッキング・レコーディングが行われる。結果的にこのセッション・テープは71年にアルバム『サーフス・アップ』の作成時に使用されることになります。

Beach Boys / Surfs Up


1967年2月9日(木) スマイル・セッション56 英雄と悪漢・セッション18
ウェスタン・レコーダーズ・スタジオ3st 、カリフォルニア州ハリウッド (2:00-6:00PM)


チャック・ブリッツがエンジニアをつとめジャスパー・ディリーの「ティター・トッター・ラヴ」の追加セッションが行われる。その後マイク・ラヴが参加し「英雄と悪漢」の最後の部分のボーカルを録音。

1967年2月10日(土) スマイル・セッション57 英雄と悪漢・セッション19
ウェスタン・レコーダーズ・スタジオ3st 、カリフォルニア州ハリウッド 


「英雄と悪漢」のブライアンのソロ・ボーカルを録音。その後”イン・ザ・カンティーナ”の部分の2分56秒のミックスを完成させる。(オリジナル・テープは紛失してしまうがセーフティー・コピーを元にした音源が90年に再発された『スマイリー・スマイル』と『グッド・ヴァイブレーションズ・ボックス』に収録されている。)

当時、唯一の完成品ともいえるミックスであったが、しばらくするとブライアンはこの完成ヴァージョンをオクラにし、再び「英雄と悪漢」パート2のための断片を思いつくままに記録していく。

どんどん迷宮にはまりこんでいくことになります。ブライアン以外のメンバーはこのような状況を知ってか知らずか67年最初のツアーに出かけています。南部/中西部10ヶ所という短期のもので、例によりブルース・ジョンストンがブライアンの代役を務めている。公演1回のギャラは9000ドル、同時の固定レートだと日本円で324万円ですか、大卒の初任給が22000円くらいで現在はその9倍強ですから約3000万円弱だけどレートが変動性になっているので600万円くらいのイメージですか。

けっこう稼いでますね。ということはビートルズなんてBB5以上に稼げたでしょうから、簡単にツアーやめてスタジオで実験的なアルバム作りに専念したと書かれていますが、収入的にはかなりの決意がなきゃ出来ない気がします(おそらく一公演1万ドル以上でしょうから)。スタジオ班とライヴ班に別れて活動していたBB5はその意味ではすごく合理的だったんですね。これでブライアンさえまともに働いていれば・・・


posted by sugarmountain
テーマ:
ア・ディファレント・カインド・オブ・トゥルース-デラックス・エディション(初回生産限定盤)(D.../ヴァン・ヘイレン


本日、とある量販のCD売り場を覗くと新譜コーナーにはヴァン・ヘイレンのアルバムがいっぱい並んでいました。また新手のベストかと思ったらニュー・アルバムみたいですね。なんでもダイアンモンド・デイヴが出戻って再結成してなんと18年ぶりとなるオリジナル・アルバムなんだとか。お腹の出たメタル・ファンのおっさんが買いにくるんだろうなぁ・・・なんて思いながら棚を眺めていくと、おぉこれは。

$鳥肌音楽 Chicken Skin Music

なんと、サム・クックの『ツイスティン・ザ・ナイト・アウェイ』やないですか。サム・クックの中でも最も売れたアルバムの一枚なのですが、おりからのツイスト・ブームに便乗したアルバムと軽ろんじられているのか未だCD化がされていなかった一枚。ついにめでたくCDで再発されたということですか。オリジナルは62年発売ですから、なんと発売半世紀にして奇蹟のCD化です。早速買って帰ってプレイヤーに。

スウィッチを入れると曲が始まる前に何故か小さくスクラッチ・ノイズの音が・・・。なんやこれ、盤起こしかい。なるほど今まで出ていなかったのはマスター・テープに問題があったのか、まっ聴けるだけでも御の字と思わななぁ。いいねぇこのイントロ、そしてサム・クックのこのスムースなヴォーカル、ん?何か声が違う、盤起の時の回転数がおかしいのか?いや、なんか節回しも微妙に違うし、これサム・クックちゃうやん、パチもんつかまされたぁ~

ってことでジャケのアーチスト名をよく見ると”TORTOISE MATSUMOTO”、トルトイスマツモト?いやトータスマツモト?なんやトータス松本くんやんけ。

ということで今日は発売したばかりのトータス松本のニュー・アルバムです。今回のアルバムは2003年に発表したソウル/R&Bのカバー・アルバム『TRAVELLER』の続編で『TRAVELLER2』となるアルバムなのですが、前回はサム・クックを始め、オーティス・レディング、アル・グリーン、マーヴィン・ゲイ、リトル・リチャードなどの「名曲」に焦点を当てたものだったのですが、今回はサム・クックのアルバムまるごと1枚に焦点をあてたものになっています。

サム・クックの『ツイスティン・ザ・ナイト・アウェイ』のジャケットです。

$鳥肌音楽 Chicken Skin Music

着ている服、ポーズ、髪の毛、表情は勿論タイトルなどの文字の字体、配置すべて完コピされています。ワーナー・ミュージック・ジャパンの略WMJもRCAのロゴに似た字体になっていたり、His Master Voiceの蓄音機で主人の声を聞くニッパー犬はノート・パソコンをのぞき込むネコ(主人の動画でも見ているのか?)に置き換えられていたりとなかなか芸の細さを感じます。

$鳥肌音楽 Chicken Skin Music

裏ジャケもコピーされているのですが、サム・クックのLPの裏にはソング・ライター・チーム、ヒューゴ&ルイージによるライナーが掲載されているのに対し、トータス盤では本人によるライナーが掲載されています。

サム・クックのアルバム「ツイストで踊り明かそう」が大好きだ。明るくて、華やかで、聴いているとどんどん楽しくなって、もう何回でも聴きたくなる、そんな素敵なアルバムだ。だけど、そんな超名盤がいまだCD音源化されていない。という事は、聴きたいと思ったらアナログのレコードを手に入れるしかない。しかもそれらはもうおそらくすべて中古品で、値段はたぶんけっこう高い。そして何よりレコードプレイヤーがないと聴けない。なんで、そんなバカな?信じられない!

だったらおれがCDにしてやる!

なぜなら、サム・クックがいなければ、このアルバムがなければ、今のおれは歌など歌っていないからだ。CD音源化できない理由には、権利だなんだといろいろ事情があるのはわかる。だったら、おれが歌えば問題なかろう。歌唱力が違う?顔が違う?何もかも違う?そんな事はおれが一番わかってる。わかっちゃいるけどやめられない。くらえ!聴きやがれ!トータス松本のライフワーク、「TRAVELLER」の第二弾は、サム・クック「ツイストで踊り明かそう」のアルバム・フルカヴァーだ!!


トータス君らしいいいライナーですね。レコード会社が発売できないんだったらおれが代わりに歌ったる、男気を感じてしまいます。トータス君も言っているように歌唱力を比べちゃったら、相手は天下のサム・クックですからね、でも好きで好きでたまらない歌をレコードにし、それが他人に聴いてもらえる喜びを胸に抱き楽しそうに歌っているのを聴くときに歌唱力が云々言うのは野暮なものです。トータス君は歌が下手じゃないのですが、今回アルバムを聴きながら、あれっこんなに上手かったっけ?と思ってしまいました。それはトータス君が書いているようにこのアルバムのサム・クックは

>明るくて、華やかで、聴いているとどんどん楽しくなって、もう何回でも聴きたくなる

そんな歌い方をしています。そしてその”明るく、華やかで楽しい”っていう形容はそのままトータス君の音楽にもぴったりくるもので、まさしくど真ん中のカバーと言え、歌ってるうちに天国のサム・クックがトータス君に憑依したのかもしれませんね(笑)。

ディープなソウル・ファンの方はどう思われるのか知れませんが、やっぱり歌唱力が違う?顔が違う?何もかも違う?と思われるのか、僕はほんと楽しませてもらいました。快哉!

トータス松本の音源はアップされていませんでしたので、本家サム・クック版を。

Sam Cooke -Twisting The Night Away


あそこのお話をしよう
ニュー・ヨークのどこかにあるという
陽気なやつらが集い
ツイストで夜を明かしてる

そこは楽しみがいっぱい
トラブルもとんでいく
老いも若いもなく
ツイストで夜を明かしてる

ツイスト ツイスト ツイストで夜を明かしてる
みんな最高の気分
ツイスト ツイスト ツイストで夜を明かしてる


書き忘れていましたが、ジャケやトータス君の歌だけでなくバックの演奏ももちろん完コピ(なんだろうと思います、原盤聞いたこと無いので・・・少なくとも「ツイステイン」「シュガー・ダンピン」は完コピ)です。変にいじらず原盤の魅力をとにかくストレートに伝えたい、その気持ち分かります、変にいじくられてがっかりするカバーが世の中にいっぱいありますから。


おまけ

ロッド・スチュワートの場合もサム・クックは一番の憧れの人。ステージで歌えるのが楽しくて楽しくてしょうがないのでしょうね。

The Faces - Twistin' The Night Away - Live London '73


確かこの歌行く前にロッドが”次は、「メンフィス」がいい「ツイスティン」がいい?”と観客に聞いて後で結局「ツィスティン」を歌い始めます。当時中学生で何のこっちゃだったんですが、今はどっちもいいけどやっぱ「ツィスティン」かなと思います。僕も少し成長したかな(笑)。




TWISTIN’ THE NIGHT AWAY/トータス松本
 ¥2,000 Amazon.co.jp

グレイテスト・ヒッツ/サム・クック
 ¥2,548 Amazon.co.jp

posted by sugarmountain
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少し前に入手したものの放置状態であった『Bad Friends』という阿久悠さんのトリビュート・アルバムを、聴くモノがないのでこれでも聴くかとプレイヤーに。1曲目は土屋アンナと夏木マリの「UFO」、2曲目は渡り廊下走り隊(拙ブログの読者の方だと、もしかして知らない方もいらっしゃるかもしれませんが、AKB48のメンバーによる別ユニットです)による「渚のシンドバッド」、3曲目はチェキッ娘(おぉ、まだいたのかチェキッ娘と思うたらCDの出た2009年にたまたま再結成してたみたいですね)による「サウスポー」・・・・

あれ、これって阿久悠トリビュート言うてもピンク・レディーの曲ばっかやんけ。とブックレットの曲目を眺めるとラスト12曲目に「河原の石川五右衛門」の文字が。”えっ、何やて、嘘っ!「河原の石川五右衛門」ってあの「河原の石川五右衛門」だよな”と歌詞が書かれたページを見ると歌手名は簪で「謎のBad Friends。大瀧詠一氏による「渚のシンドバッド」の替え歌。特別収録」と簡単なコメントが、やはり大瀧師匠の「河原の石川五右衛門」でした。っていうかそれ以外ありえないですよね。

ところで歌手の「簪」って誰?というかそもそも漢字が読めない(-_-;)。IMEパッドで調べると「かんざし」と読むんですね。で簪って誰と調べるとどうやら渡り廊下走り隊の変名というか、この曲を歌うためにつけた別名のようです。

探したらYOUTUBEにプロモ・ビデオがアップされていたのですが、こちらは本家未唯mieまでが登場するスペシャル・バージョン、ある意味豪華。

河原の石川五右衛門/簪


頭に出てくる五右衛門風の扮装をしたひげ面の井上鑑さんがどことなく若かりし日の師匠を思わせたり、遊郭(?)にかかった垂れ幕に「瀧」の文字があったりとけっこう遊び心のあるプロモです。

この曲のパーソネルもブックレットにあるのですが、それはこんな面々でした。

簪(Vo)
井上鑑(Arrange&Key)
岡沢章(B)
今剛(Gu)
三沢またろう(Per)
吉田兄弟(津軽三味線)
伊集加代子、山田洋子(Cho)


岡沢さんってどうだったか記憶が定かではありませんが、大瀧組の常連というかレギュラーの井上鑑さんや伊集さんを使っていたりとこの曲を仕掛けた人、絶対ナイアガラーですね。

実はこの曲だけ阿久悠作詞じゃないということもあるにはあるのですが、わざわざブックレットの1頁を使って曲の解説が書かれています。

文責は山崎一稔という人で肩書きは阿久悠プロジェクト・プロデューサー。

しょっぱなから
このタイトルを見てピンときた方は、間違いなく「ナイアガラ・フリーク」ですね。
ですからね。中略。

「サウスポー」の発売は1978年3月25日ですが、何と!その1ケ月前の2月に大瀧氏は、この曲をレコーディングしています。今回、アレンジャーで参加していただいた井上鑑氏は当時、大瀧氏のレコーディング・メンバーとして活動を始めていました。そしてピンク・レディーのオリジナル曲のレコーディング・ミュージシャンでもあった為、ピンク・レディーと同じメンバーでベーシック・トラックを作るという奇跡が起きた訳です。

鑑さん、ピンク・レディーのバックでキーボード弾いていたんですね。知りませんでした。

福生スタジオ最後の録音といわれる「河原の石川五右衛門」ですが、結局はお蔵入りとなってしまいます。

しかし、阿久悠氏側からの「替え歌は認められない」という意向により発表を断念。同年11月25日、ナイアガラ・レーベルより『Let's Ondo Again』を発売しましたが、「河原の石川五右衛門」は歌詞のみの発表となりました。3年後の1981年、阿久悠氏側から許可がおりたため、アルバム『Niagara Fall Stars』に「河原の石川五右衛門」を収録して発表することができました。

ピンク・レディーの楽曲なんて冗談の分かる人じゃないと作れないでしょうが、さすがにピンク・レディーの絶頂期にオシャマンベ・キャットで「河原の石川五右衛門」っていうのは阿久さん的にも「勘弁してよ」ということだったんじゃないでしょうか。そして一転発売を許可したのは『Niagara Fall Stars』の発売は81年の4月、ピンク・レディは前月に解散していましたから、いままで厳しいこと言って御免ねといったところだったんじゃないでしょうか。それと78年の時点では歌謡界の売れっ子作家阿久悠からすると”大瀧詠一、誰それ?”だったかもしれないですもんね。

こうして晴れてオシャマンベ・キャットの「河原の石川五右衛門」は日の目を見ることとなります。(現在はめでたく『Let's Ondo Again』のCDに収録されています。)

河原の石川五右衛門/オシャマンベ・キャッツ


この後、85年にCM絡みで大瀧師匠に小林旭の楽曲依頼が来た際に、師匠自ら”作詞は阿久さんで”というリクエストをします。山崎プロデューサーはこのリクエストを阿久悠が「河原の石川五右衛門」が世に出るのを許してくれた阿久さんへの恩返しでは無かったかと推測しています。阿久悠の熱き心ならぬ広き心と大瀧師匠の先輩への尊敬の念があってスタンダード「熱き心に」が生まれた。ええ話やなぁ・・・・。

小林旭/熱き心に


最近も車のCMで「天然色」が使われたりして、よく”なんで大瀧詠一の曲はCMによく使われるの”みたいなクエスチョンがあり、その答えとして業界内に大瀧師匠のシンパが多いからだみたいな答えがされることがありますが。今回の山崎プロデューサーなんかも絶対ナイアガラーの一人じゃないかと思われます。表向きは阿久悠のトリビュートという形をとってはいますが、おそらくは「河原の石川五右衛門」をあらためて世に出したかったんじゃないかと思います。ポニー・キャニオン発売のコンピなのにポニー絡みの阿久作品ではなくライバル、ビクター音産のピンクレディーの楽曲のみで構成したのも、ピンク以外の曲で構成されたトリビュートであれば「河原の石川五右衛門」を引きずりだす言い訳がなりたたなくなるからでしょう。

このようにナイアガラーはフリー・メイソンのように音楽業界をはじめ出版業界や広告業界、はては思想界(内田のおっさん)にまで入り込み、ことあるごとに師匠の歌を持ち出し、印税生活を支えているのです(笑)。

Bad Friends~阿久悠トリビュート~/オムニバス


LET’S ONDO AGAIN 20th Anniversary Edition/ナイアガラ・フォーリン・スターズ
$鳥肌音楽 Chicken Skin Music

小林旭 ゴールデン☆ベスト/小林旭




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