ノーヘルでええから100人ほど集めぇや | 鳥肌音楽 Chicken Skin Music

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Outlandos D'amour____________________________Reggatta de Blanc


$鳥肌音楽 Chicken Skin Musicトーキング・ヘッズの過去記事をリライトしながら、この記事を書いた後次にポリスの西部講堂公演のことを書きますと宣言しときながら5年間放置していたことを思い出しました。実は記憶があいまいでどうまとめようかと悩んでるうちに放置してしまったのですが、レコード・コレクターズの2007年8月号のポリス特集で西部講堂公演についてのレポートがあり、再度挑戦したのですがその時も結局まよめられず今日にいたってしまったわけです。とりあえずレココレの記事の要約と当日警備のバイトとして参加した僕の記憶を書き記してみたいと思います。

レココレの田山三樹さんのレポートによると1980年2月に来日したポリスのJAPANツアーの日程には当初西部講堂の名前は無かったとのことです。当初のスケジュールでは2/14,15中野サンプラザ、2/17渋谷公会堂、2/18愛知勤労会館、2/19大阪フェスティバルホールの5公演でした。2/20の西部講堂が急遽追加されたのは当時日本でのポリスの販売元だったアルファ・レコードの社長村井邦彦のアイデアによるものだったとのことです。”ポリスはA&M所属だったからアルファで発売してるんですが、実際に本人達にあってみると周りのスタッフふくめて反逆者のような雰囲気があり、僕は「これがパンク、ニューウェイヴなのか」と思いました。その時にこういうタイプのグループには西部講堂の雰囲気が合うのではないかと閃いたんです。”

Can't Stand Losing You and Next To Yo


西部講堂は京都大学の施設でしたが、その管理運営は学生達が行っていました。具体的には自治会の下部組織の西部講堂連絡協議会(西連協)が実務を行っており、商業主義のホールとは趣を異にしたユニークなイベントやライヴを行っていました。村井の閃きを実現させるためにアルファのスタッフは招聘元のウドー音楽事務所に相談に行きますが西部講堂ということで大反対をされます。もしどうしてもやるというのならウドーは一切関与しないと言い切られてしまいます。しかしなんとか公演を実現させたいアルファはアーチストに近い人間と京大の自治会を訪ね開催を打診すると西連協側もポリスならということで前向きな返事を得ます。ただ西連協の名前を主宰にすることは出来ずこのライヴのために<ウェスタン・ポリス・オフィス>という事務所をでっちあげ主宰者にします。実質は西連協なのですが自治会内には開催に強く反対するものもいたのでカムフラージュするための措置であったようです。

それまでの椅子に座ってコンサートを観る日本の観客に不満を抱いていたポリスもオールスタンディングの西部講堂のライヴについては最終公演ということもあり大乗り気で挑んだようです。A&Mもこの日のライヴをレコーディングすることを決めていましたし、カメラ・クルーも帯同しておりライヴやオフショットも撮影されることになっていました。

Walking On The Moon


ウドー音楽事務所は前日の大阪フェスを最後に西部講堂公演には一切タッチしない予定でしたが、それまでのツアーの流れもあり一部のスタッフはポリスと行動を共にしていました。(このことが後の事件に繋がっていきます)

当日の模様をアルファのディレクター関は次のように語ります。”昼、明るいうちから準備にかかると、見慣れない風体の人たちがそこかしこにたむろしているわけですよ(笑)。関係者じゃないし・・・あ、これが反対派の人たちか、と、彼らが一升瓶を抱えて体育会座りしているのが目につくわけです。それを観て、なにかあった時はこちらも体を張ってステージやミュージシャンを守らなくてはならないという気持ちと・・・西部講堂はちょっと床に傾斜があるんで、もし騒ぎが起きてお客さんや反対派の人たちが将棋倒しにでもなったらいけない、と、それがいちばん心配でした。”そしてアルファ、ウドーのスタッフ、西連協で対応策をシュミレートして不測の事態に備えました。

2200人の観客がオールスタンディングで熱狂し、アーチストとファンが一体となってステージは大いに盛り上がりを見せていました。途中、会場の外で”やめないと電源を落とすぞ”と騒ぐ一段と警備スタッフがもめる一幕もあったようですが、特に妨害もなくライヴは順調にすすむかと思われましたが途中反対派の数人がステージにあがり演奏を中断させマイクを奪い客席に”こんなライヴは認められない”とアジをはじめます。客席からは”帰れ”という野次が反対派に投げかけられ、ライヴの続行を求めるファンの熱気に気圧されたのか反対派はいったんステージから降ります。ライヴは再会されますが会場の外では反対派が実力行使も辞さない構えを見せており、安全を考慮しライヴはアンコール無しの1時間ほどで終わってしまいます。

と以上がレココレのレポートの要約です。仕掛け人は村井邦彦さんだったんですね。事件はありましたが確かに初期のポリスには特にスティングにはその芸名の通り刺すような反体制の雰囲気がありましたから西部講堂という場はぴったりだった気がします。さすがは名プロデューサーだと思います。

さてここからは僕のポリス西部講堂体験ですが、あまりたいしたこと書けません。

僕がコンサートの警備のバイトをするようになったのはサークルの先輩であるM原さんから声をかけられたことがきっかけでした。M原さんは当時、連続射殺魔なんかに係わっていて彼らのEP盤を自費製作で発売したりしていました。そういったことで西連協ともつながりがありポリスの少し前に西部講堂で行われたストラングラーズの2度目の来日公演の時に警備をしないかということで誘われたのでした。大元の招聘がどこかは覚えていませんが(初来日はトムズ・キャビンだったみたいですね、トムズとストラン、ふーむ)西部講堂に関しては西連協としての仕切りだったと思います。なぜならバイトではなくボランティアでしたから。

The Stranglers / Hanging around - 1979


そして、またM原さんから声がかかります。”西部講堂でポリスをやるから警備で来ーへんか。今度はバイト代でるかもしれんで”と言われた気がします。M原さんはウドーの警備の人集めも時々やっていて、ポリスに関してはウドー側からも人を集めてくれという話があったんじゃないかと思います。今回のライヴは形としては西連協が仕切っているけど実際はウドーの人間が警備の指示やPA関係に携わっているというような話もM原さんから聞いていた気がします。申し訳ないのですがこの辺の記憶があいまいです。ただウドーの人間が今日の進行に係わっているというのは始まる前から知っていました。

前回のストラングラーズの時は初めての外タレ警備にも係わらずガタイが大きいことに目をつけられたのかステージ上手で客席のおしくら饅頭で気分が悪くなった女の子を引っこ抜くという役をやらされたので今回も講堂の中での警備と思ったら、講堂の外側を警備するというものでした。時は2月ですからまだまだ寒い時期で僕とツレの二人は講堂の裏手で焚き火をしながら中から聴こえてくるポリスの歌声を聴きながら暖をとっていました。そんな僕らの前にとても学生には見えないようなオッサンのような長髪の男が何人か現れ語気も荒く”おい、なんじゃこれウドーが入っとるやないか。××はどこにおんねん”と叫んでいます。××というのは西連協のメンバーで今回のでっちあげ事務所ウェスタン・ポリス・オフィスの代表となっている人の名前です。

”おい、これなんかやばいんちゃうの””ほんまやな”。当時、関東の大学は学園祭なんかにしてもすっかり商業化していて協賛に呼び屋の名前が入ったりって言うのが普通になっていたような気がします。しかし僕の通っていた同志社もそうですが、一部の大学では学内のイベントに関しては全て学生自治会が管理して、イベントの企画運営主宰が全て学生のものしか開催できませんでした。例えばサークルの企画で学園祭に呼んだルースターズなんかにしても趣意書としてロック=反体制の音楽から始まって正直ルースターズの音楽とはまるっきり関係のないような理屈をこねくりまわして、最終的にはこのライヴによって学生たちの自治意識が高まるみたいな文書を提出して許可される、そんな按配でした。京大の自治会は同志社のさらに上を行くアナクロな組織でしたからこれはえらいことになるいんやないかとツレと戦々恐々としながらも寒いので焚き火にあたっていました。


Message in a Bottle


再び自治会幹部らしき男達が現れ叫んでいます。

”話にならん、お前吉田寮と熊野寮に電話してノーヘルでええから100人ほど人集めぇ”

$鳥肌音楽 Chicken Skin Musicウドーが運営に係わっている=京都大学の学生自治が日帝の商業主義に侵されているから実力で排除しようということみたいです。”ノーヘル”でええから”100人”・・・うひゃーどうなるんやこりゃ。自分がウドー絡みで警備をしている事も忘れ、なんか普段見れへんことが見れるかもとやじ馬気分で事態を眺めていました。

気がつくとさっきまで流れていた音楽がストップしています。どないしたんやろと表に回り講堂の中に入るとさっきの自治会の長髪のおっさんがマイクを握ってウドーがどうしたとか、商業主義の手先だとかアジを行っていました。メンバーは脇に退きあっけにとられたような顔で佇んでいました。客席からは”続けろアホ”とか”引っ込め”とかいった野次が飛んでいます。いちびったパンクスがステージにあがりマイクを取って”おれらライヴが見たいだけなんじゃい”みたいなこと言おうとして警備にひきずられていったり。ただ全般的には一触即発といったような雰囲気ではなく割りとお客さんも冷静だったような記憶があります。

警備のバイトなのであまりその場にいるわけにも行かず最後まで見届けることは出来ませんでしたがしばらくすると演奏が再会され、ノーヘル軍団も結局現れることもなくライヴはアンコール無しで終了しました。終了後のことはまったく記憶に残っていません。

以上が僕のポリス西部講堂の記憶です。バイトと書きましたが果たして最後バイト代もらったかも覚えていないような状況です。詳しい顛末を知ってたはずのM原さんも故人になっているため聞くこともできないのでかなりあやふやな記憶で申しわけございませんでした。あの時代ならではの出来事だったと思います。

Roxanne