中日社友が届く

トップの記事は北陸中日新聞の

発刊50周年 新社屋完成

苦難乗り越え 「北陸は一つ」今に


記事の中で紹介されている記事は

私こといなかのプレスマン駆け出し時代のもの

昭和47年11月6日未明に北陸トンネルで発生した

死者30人、重軽傷者714人の九行列車火災事故の

第一報を同日付朝刊に載せたのは全国で

北陸中日新聞だけという大スクープ。


いやー懐かしい。入社して3年目。

当日は福井支局で泊まり勤務をこなしていた。

深夜になり、熱燗をつけて一杯やりながら

寝る前に警戒電話を当時の鉄道公安室にいれた。

電話に出た職員は「なんか北陸トンネルで火事があったみたい。

詳しいことは調査中だけどけが人はいません」とのこと。


すぐさま、30行ほどの記事にした。

名古屋で印刷する中日新聞はすでに締め切り時間を過ぎている

金沢で印刷する北陸中日新聞は間に合うとのことなので

電話で報道部に吹き込んだ。


ところが、「けが人なし」は真っ赤な誤報

敦賀と武生の間にある北陸トンネルからは

その後2日間ほど煙を上げて燃え盛った。

福井支局の全員を呼び出し取材に当たった。

1週間はほとんど飲み食いなし、睡眠時間もとれない状態だった。


新聞記者になり、初めて書いた1面トップは

全国でただ一紙という大スクープだったが

内容は大チョンボ。誰からも褒められもせず

誰からもとがめられないちょっぴりしょっぱいデビューだった。