「不易と流行」について、前回述べましたが、流行については、感情が動きやすいのでわかりやすいと思います。

それに比べ「不易」は、わかりにくいと思います。

物事の本質を探っていくには、意思が必要になります。

本当にこれが、本質なのかを問い続ける意思が必要になります。

人の行動1つについても本質を見抜くことができれば、対応が異なってきます。

例えば、泣いているわが子どもを見たとします。

すぐに感情が動き、「可哀そうだ。どうしたのだろう?」と探りたくなります。

けがをしていないだろうか。
何か辛い事があったのだろうか。
何か困ったことがあるのだろうか。

様々な思いを巡らしながら、子どもを眺めることになります。

もし、けがをして泣いているとしたら、どんな対応をするのでしょう。

けがの状況にもよりますが、一瞬でわかるようなけがでないとした場合の話です。

その対応にも本質を見抜く力が影響を与えます。

例えば、次のような対応が考えられます。

ア、「どうしたの?」と訊ね、理由を聞く。
イ、体の隅々をさすり、「どこか、痛い所があるの?」と訊ねる。
ウ、「大丈夫だよ。傍にいるから。」と何も言わないで、抱きしめる。

本質を見抜くには、鋭い観察力が必要になります。

子どもは、泣くことで、何かを訴えています。それをつかむことが本質を理解することになります。

アは、何かを訴えていることはわかるが、相手に伝わる言葉を使わないと理解できないとの判断があります。言葉で理解しようとしています。「泣く」・・・理解できないという自分です。

イは、何かを訴えたがっているという子どもの思いに答えて、泣く理由を「けがではないか。」と判断し、確かめるために子どもの体の隅々を触り、痛い所はないか探すという行動しています。
「泣く」・・・・痛いから泣いていると感じたことになります。「泣く」・・・少し理解できるという自分です。

ウは、子どもの表情や泣き声、しぐさなどから「甘えたがっている。」と判断し、子どもの不安を解消するために抱きしめるという行動をしています。
「泣く」・・・・何となく理解できるという自分です。

この分析が正しいというわけではありません。違いを理解していただきたいという思いから3つに分けてみました。

言葉を使うことに慣れている私たちは、かなり言葉でやり取りをし、その言葉から本質を探ろうとする傾向があります。

しかし、私たちが身につけている能力は、これだけではありません。
五感情報すべてを駆使し、相手を理解しようと努力すれば、言葉以上のものを相手から感じることができます。

「あの人に裏切られた。許せない。」と思う事がありますが、ひょっとするとある一面だけをとらえて、判断していたのかもしれません。
その人の本質を眺めることができたら、きっと「そういう面もあるかもしれない。」と思い、「裏切られた」「許せない」などと言う言葉は出ないかもしれません。

仕事に感情を持ち込むことで楽しくなったり、辛くなったりします。この感情の判断ではなく、仕事の本質から眺めてみると、辛い仕事でも、しなければならないと思えるかもしれません。

組織の中に苦手な人がいるとなかなか辛いものです。でも、組織の本質がわかったら、どのように対応すればよりよい組織になるのか考えて、苦手な人にうまく対応できるかもしれません。

夫婦関係でも、互いの欠点が見えてきて嫌になることがあるかもしれません。そして、価値観が違うと相手を責めることがあるかもしれません。でも、愛の本質から眺めてみると、価値観がそれほど重要ではないと思えるかもしれません。

子育ては、大変でかなりのエネルギーを使います。子どもの行動に腹が立ち、感情がむき出しになって疲れ果ててしまいます。でも、子育ての本質から眺めてみると、子どもの行動が理解でき、腹が立たなくなるかもしれません。


長い人生を生きることに疲れていると感じるかもしれません。ひょとすると、死にたいと思っている人もいるかもしれません。でも、生きることの本質から眺めてみると、今の状況も意味があるものと理解できるかもしれません。


人間不信になって、人と関わりたくないと思っているかもしれません。でも、人間理解の本質から眺めてみると、自分と人とが同じに見えて、人が恋しくなるかもしれません。


本質を探ることは、五感を通して、本質につながる情報を多面的に多く集めなければなりません。

本質がわかったと思っても、ひょっとするとそれはほんの一面を知っただけかもしれません。

まずは、行動です。行動することは、五感情報を多く得ることになります。

わからなければ、尋ねることができます。
わからなければ、行動して試すことができます。
わからなければ、今の自分から離れて、広い視野から観察することができます。

本質が見えると世界が変わります。