真意を探る

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言葉は、使い方を間違えると、時には誤解を招くことがあります。

特に慣れ親しんだ言葉は、意識せず、無意識のうちに使っているため、目の前の相手とは無関係で、条件が揃うと自動的に使ってしまいます。

例えば、方言がそれに当たります。
岐阜で「えらい」という言葉を使うことがあります。「えらい」は「偉い」という使い方が一般的ですが、「えらい」は「疲れた」という意味で使うことがあります。

方言だけではありません。

物事の判断もそれに当たります。
「やさしい人」・・・・イメージした「やさしい」と一致した時、やさしい人になります。
「大変な仕事」・・・・イメージした「大変さ」と一致した時、大変な仕事になります。
「力がない」・・・・・・イメージした「力がない姿」と一致した時、力がない事になります。

このように考えると、

自動的に反応しないで、言葉を使う事は、少ないかもしれません。

そのため、多くの場合、言葉を十分吟味せず、使っているために誤解を招いていると考えた方がよいかもしれません。


相手が使う言葉に対しても自分のイメージをかぶせて理解しますから、相手の言葉をそのまま受け取っても、必ずしも相手の意図と一致するとは限りません。

それでは、相手の意図をつかむには、どのようにすればよいのでしょう。

・違いがあるという前提で話を聞く
・一致させなければならないことについて質問する

 (質問する内容は、具体的な姿のイメージが一致しているか確認するためのもの)
・会話をしながら、言葉以外の表情やしぐさなど、言葉以外から言葉と一致しているか推測する。


特に自分の意図とは異なる立場に相手が立っている時には、どうしても自分の都合のよい解釈をしてしまいます。

これを避けることが意思の疎通を取る上で必要になります。

そのためには、自分の立場ではなく、一端相手の立場になり、相手の主張が正しいと思えるまで、相手の言葉を吟味します。

その上で自分の思いとのずれを探ります。

どちらの立場も大事にしなければなりません。

その事を十分配慮して、対応する構えがあれば、立場が異なっていても、誠意が伝わるはずです。

言葉に振り回されないように十分注意して言葉を使いたいと思います。

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人に優しく

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最近、遠い親族になりますが、90歳を超える高齢の方が次々と亡くなりました。

その亡くなり方が、孤独死であったり、虐待による(?)死であったりととても残念な形でした。

身近にこのような事があると、益々「人に優しい社会」の実現が必要だと感じます。

自分自身の人とのつながり方を考える機会になっています。


自分の思い通りに生きることができれば、幸せかと言えばそうではないかもしれません。

・思い通りにすることで、相手を傷つけたり、関係を悪化させたりすることがあります。
・思い通りにすることで、気づかなければならないことに気づかずに過ごすことがあります。
・思い通りにすることで、場を混乱させてしまうことがあります。


人との関わりを避けて生きることはできません。

だからと言って、我慢することでもありません。

誰もがそれぞれの場で、役割を担うことになります。

親として、職業人として、地域住民として・・・・いろいろな立場になって役割を担うことになります。


立場によって、関わる人が異なります。

そして、その関わる人と共にその場を作りあげます。

それぞれの場にそれぞれの幸せがあるように思います。


地域や社会から、そして家庭からも孤立しがちな高齢者への対応は、これからの社会を考える時にとても重要なことだと思います。明日は我が身です。


それぞれの場で高齢者をつなぎとめるはたらきが必要になります。

話し合って決めることではないように思います。
誰かが考えることではないように思います。

どんな心もちで、どのような立場を取り、どのように動くかということで決まるように思います。

他人に頼ることなく、自分で決めるしかありません。

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時間の使い方

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春休みになると子どもたちは、自由な時間が増えます。その自由な時間をどのように使うかは、自分次第です。

することがはっきりしていると充実した時間を過ごすことができますが、することが曖昧だと、1つの事にかける時間が長くなったり、刺激をくれるテレビを見たり過ごす時間が多くなります。

これは、子どもだけのことではなく、私たち自身にも同じことが言えます。


疲れた感情をいやすために、別の感情が沸きやすい刺激を求めることがあります。読書をしたり、テレビを見たり、運動したりするのもその一つです。

感情が過去の体験や経験に基づいて作り出された価値観によるものだと考えると、感情に合わせて過ごすことは、過去の自分に振り回されているということにもなります。

本当に今したい事、しなければならない事は何かを考える時間を作ることもしないで過ごしてしまうことがあります。

そして、時間の使い方一つで、その後の人生が変わると思うと、時間の使い方を見直さなければならないと思うことがあります。


自分の意思で決めた時間が1日の中でどの程度あるのでしょう?


食事をしたり、入浴したり、睡眠を取ったりすることは、自分で決めているというよりも、習慣となっていて自分で決めたという自覚はありません。

そう考えると、1日の中で自分の意思で決めた時間はどれほどあるのでしょう。

その時々の刺激に反応して動いていることが多く、意識して「決めた」と思える動きは少ないように思います。

よく事業活動でPDCAサイクルを使って円滑に事業を進めることがありますが、生活そのものでも使うことができます。

やってみるといかに意思が弱いかを実感することになりました。

時間をうまく使い、自分らしさを生かしたいと思います。

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主張すること

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相手の気持ちを大事にしたいと思う気持ちが強いと主張したいことでも、一端胸の内にとどめておき、相手の思いを聞くことになります。

そして、その思いがわかると、主張しようと思っていたことでも、言わないで内に秘めておくことがあります。

その時、「仕方ないな。」「無理はさせられないな。」などと自分に納得のできる答えを見つけるまで自問自答することになります。

どこかで一致するところを見つけ、お互いに納得できる形にするとよいのでしょうが、なかなか自分の思いを相手に主張できません。


主張するだけだから話せばいいと言われるかもしれませんが、主張し始めたら、一歩も引けない頑固さをもっている自分だと知っているから、なかなか言い出せません。

最善の方法を考えて主張しようとするわけですから、相手の不十分さもわかっています。

特に第三者が絡む内容であれば、第三者に迷惑をかけたくないとの思いがあるため、余計に主張したくなってしまいます。


この頑固さの一番の問題は、相手の主張の不備を指摘することでしか、問題解決の糸口を見つけられないところです。
これでは、いつまで経っても平行線になります。お互いの主張を言い張るだけになります。

ここを乗り越えるには、お互いが同じ方向を向いていると気づくところから始めなければなりません。

自己主張が強いとなかなか相手の考えを素直に聞き入れることができません。相手が譲るか、自分が譲るかという話し合いになってしまいます。


これでは、同じ方法を向いているとは言えません。

同じ方向を向くためには、自分の主張をもっていても、相手と一緒に作り上げるという立場に立たなければ同じ方向にはなりません。

相手の不備を知っているからなおさら、相手が気づくように方向づけることが必要になります。
相手のペースに合わせながら進めることになるため、忍耐力が必要です。

説明すれば、早いと思いがちですが、不備に気づいていないと、至らない主張を別の場面でも繰り返すことになります。
この方が解決するまでに時間がかかります。

同じ方向に進んでいることをわかっている側が、わかっていない側を、支援しながら、前に進むようにしなければなりません。


今の私は、これができない未熟さを認めることができず、逃げているように思います。

逃げないで、挑戦し続けたいと思います。

続けることの難しさ

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1つ決めた事でも続けるにはかなりのエネルギーが必要になります。

そのためには、モチベーションが必要だと言う考え方もあります。

したい事ならば、それでもよいかもしれませんが、しなければならないことは、それでは通用しません。

介護の問題は、しなければならない類いになります。


介護にどんな意味付けをしようともそれで納得できることではありません。


介護を始めると、時間や費用、関わりなど様々な事で制約を受けることになります。
今までの生活を一変させることになります。

これは、介護だけでなく、新年度に入ると生活が一変するような機会は、誰にでもあります。

職場が変わる、人事でメンバーが変わる、新しい出会いが始まる、住み家が変わる・・・・

これらを、拒むことはできません。

受け入れるしかありません。


それを続ける自分はどんな自分であればいいのか問われることになります。


我慢することでもありません。気に入らないからと改善することでもありません。


続けるための何かが必要です。これは、モチベーションとはちょっと違う感じがします。


我慢したくなる自分、気に入らないと思う自分が問題になります。モチベーションによってこれらの問題が解決できるとは思えません。

これらは、過去に身につけた自分の価値観が判断した結果です。
過去に身につけた自分の価値観が変化を拒んでいることになります。

変化の意味を理解し、変化に対応できる自分を受け入れなければ、続けることは難しくなります。

このまま続けると、トラブルになったり、挫折したりすることにもなります。

今の自分と過去の自分とを切り離して自分を見つめる必要があります。
lきっと何かに気づくことができると思います。

変化を受け入れられない自分の未熟さに気づくことかもしれません。
変化に何かを期待した自分の愚かさに気づくことかもしれません。


私の場合、変化を受け入れにくくしているのは、何となく自分の未熟にあるように感じます。

過去の自分にこだわることなく、変化を受け入れる今の自分として、どんな未熟さがあるのか、探り続けたいと思います。

節目を生かす

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今日は小学校の卒業式に招かれて参加することになりました。

卒業式は、子どもにとって大きな節目になります。
小学校生活を終え、中学校に向かうための自分を見つめ直し、整理する時間になります。

私たちの人生には様々な節目があります。
この節目を生かすことは、前向きに生きる大きなチャンスになります。

過去を切り捨てるのではなく、過去を生かしながら、未来を築くことになります。

過去は、今の自分がすべて背負っています。


もし、「自分にとって都合のよい事だけを生かしてきた。」「嫌な事は切り捨ててきた。」などと思う事があれば、これらは、消えたわけでなく、心の奥底に残っています。

残っていると、形が変わってまた新たな課題となって表れてきます。

例えば、
苦手な人を避けてきたとすれば、別の苦手な人が現れます。
したくないと避けてきた事があったとすれば、したくない出来事が起こります。
関係をうまく築けなかったとすれば、同じように新たな人間関係の中でも同じ課題が生じます。


どれも、自分のあり方が変わらない限り、繰り返し問題が起きます。

夢をもって前に進むためにも、過去の自分を振り返り、クリアしなければならないことは、何かを振り返ることが必要です。

嫌な出来事を見て見ぬ振りをしたり、隠したり、ごまかしたりすることなく、真摯に向き合い、自分の未熟さを実感することができたら、未来はそれだけで変わります。

未熟さを実感することは、自分を否定することではありません。

至らなさがあるから、前向きになれます。

至らない点を補う未来があります。

いつまでも成長し続けることができるのは人間だけです。

時間に流されることなく、節目を作り、自分自身を見つめ直す暮らしをすることが成長につながると信じています。

無理せずできる事をする

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意欲的になっている時には、少し力が入りすぎることがあります。
この少し力が入り過ぎた時に決めた取り組みには、少し無理があるかもしれないと考えて取り組んだ方がよいかもしれません。

それは、力が入っている今だから、それにかけるエネルギーがありますが、時間の経過とともに、そのエネルギーは失われてしまいます。それでも成果を上げるためにやり続けるだけの価値ある活動なのかを十分吟味しなければ、長続きしません。

それどころか思うような成果を上げられないと、自分を責める材料を作ることになります。

できない自分を作り出すことが一番の害です。

一歩でも前進したと思える取組にするには、取り組む前の吟味が重要になります。

どこまで深く考えて取り組みたいと考えているのかが重要です。

朝ドラの「べっぴんさん」でも、4人が子どもランドの夢をあきらめました。

夢が実現した花を次の世代が見ればよいtと考え、今は茎を太く丈夫にすることに力を注ぐという姿は、このことに似ています。

夢をあきらめるのではなく、追い続けるためには、地道な努力が必要です。これには、強い意思が必要になります。

支えること

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私は、「人に迷惑をかけてはいけない。」とか、「自分の事は自分でしなければいけない。」という思いを大事にしながら、生きてきたように思います。

そして、これが相手に対する思いやりのある姿勢だとも思っていました。

まるで、これが真実かのように生きてきました。

しかし、最近疑問を感じるようになりました。

・高齢になったから何の役にも立たないから、自治会を脱退したいと申し出る高齢者がいます。
・人の世話になり、迷惑をかけたくないからと人との関わりを拒否する高齢者がいます。
・高齢者の交通事故が増えています。また、高齢者が加害者となる交通事故も増えています。

他人には頼らずに生きていこうとしている高齢者の姿が見え隠れします。


しかし、現実的には、高齢になって、「できないこと」「わからないこと」が増えています。

「やりたいけれど、できない。」・・・・葛藤に苦しむ高齢者の姿が目に浮かびます。

そして、高齢者自身が、役に立たない、迷惑をかける存在と考えているから、この問題が解決しないのではないかと思うようになりました。


役に立たないというのも事実ではありません。


介護を始めた私にとって、介護するための時間を生み出し、介護者と関わり方を工夫しながら、毎日を過ごすことになります。

これを迷惑な事だとか、辛い事だとか考える人もいます。

しかし、この現実を自分の優しさが試される機会と考えると、迷惑な事、辛い事とは言い切れません。

手助けをするから学べることがあります。
支えようとするから関わりが深くなります。

決して負の存在ではありません。

自分自身の在り方を見つめる機会も増えていきます。

ですから、

高齢になれば、

他人に迷惑をかけてもいい。
他人に助けてもらえばいい。

と、誰もが考えるようになれば、支える方がもっと優しくなるのではないかと思えてなりません。

 

支える人は自分一人ではありません。多くの人が支えています。

他人の姿を見ながら、自分の至らなさにも気づくこともあります。

その時、未熟な自分を発見します。

 

支えられる側に合った力が、支える側に力がつきます。


これは、高齢者だけでなく、自分より弱い立場の人との関わりに当てはめることができます。

今私は、迷惑な事、面倒な事に耐えうる力を身につける機会を得ました。

別れを考える

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いよいよ年度末となり、あわただしい毎日を過ごしている方も多いのではないでしょうか。

この年度末につきものが、「別れ」です。

親しい人との別れは、とても辛いものです。できれば避けたいと思うのが私たちです。

避けたい理由は、
・関係が断たれる(弱くなる)
・築いたものがなくなる(使えにくくなる)
・思いを通わせにくくなる。(通わせなくなる)
・関わりを深めたいという思いを断たなければならない
・まだやり残したことがある
など たくさんあります。

別れがわかっている場合は、それなりの心の準備をする時間がありますが、突然の別れになると、いきなりこれらの理由がやってくるので、その衝撃も強くなります。

このことから考えると、別れについての心の準備ができていれば、衝撃が少なくて済むということになります。

その時にふっと浮かぶ言葉が、 一期一会 です。

出会っているその一瞬の時間の中で、悔いが残らないように誠意を尽くし、精一杯力を尽くす

この姿勢です。

ここには、心から相手を思う強い意思を感じます。

これならば、

別れても悔いはありません。
すべてをやり切った、力を出し切った充実感があります。

それでも別れに辛さを感じるのならば、ひょっとすると相手に「依存」している自分がないだろうか探ることになります。

依存があると別れられません。

もし、別れが「依存」を断ち切る機会を強制的に作ってもらったのだと考えたらどうなるでしょう。

依存から自分の力で抜け出せない自分に気づくことができます。
そして、依存している自分を責めるのではありません。そこにとどまるのではなく、依存を断ち切った後の自分探しをしなければなりません。

新たな依存を作るのか、それとも、依存をやめ自立に向かうのか、その選択をする自分が求められています。

新たな依存を作るために、新たな出会いを作ろうとするかもしれません。
自立のために、自分の力で何ができるのかを探るかもしれません。

すべて自分次第です。


今の自分にとって、どの選択をするのか、別れを迎えた今、それを考える機会が現れています。

物事の本質を探る

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「不易と流行」について、前回述べましたが、流行については、感情が動きやすいのでわかりやすいと思います。

それに比べ「不易」は、わかりにくいと思います。

物事の本質を探っていくには、意思が必要になります。

本当にこれが、本質なのかを問い続ける意思が必要になります。

人の行動1つについても本質を見抜くことができれば、対応が異なってきます。

例えば、泣いているわが子どもを見たとします。

すぐに感情が動き、「可哀そうだ。どうしたのだろう?」と探りたくなります。

けがをしていないだろうか。
何か辛い事があったのだろうか。
何か困ったことがあるのだろうか。

様々な思いを巡らしながら、子どもを眺めることになります。

もし、けがをして泣いているとしたら、どんな対応をするのでしょう。

けがの状況にもよりますが、一瞬でわかるようなけがでないとした場合の話です。

その対応にも本質を見抜く力が影響を与えます。

例えば、次のような対応が考えられます。

ア、「どうしたの?」と訊ね、理由を聞く。
イ、体の隅々をさすり、「どこか、痛い所があるの?」と訊ねる。
ウ、「大丈夫だよ。傍にいるから。」と何も言わないで、抱きしめる。

本質を見抜くには、鋭い観察力が必要になります。

子どもは、泣くことで、何かを訴えています。それをつかむことが本質を理解することになります。

アは、何かを訴えていることはわかるが、相手に伝わる言葉を使わないと理解できないとの判断があります。言葉で理解しようとしています。「泣く」・・・理解できないという自分です。

イは、何かを訴えたがっているという子どもの思いに答えて、泣く理由を「けがではないか。」と判断し、確かめるために子どもの体の隅々を触り、痛い所はないか探すという行動しています。
「泣く」・・・・痛いから泣いていると感じたことになります。「泣く」・・・少し理解できるという自分です。

ウは、子どもの表情や泣き声、しぐさなどから「甘えたがっている。」と判断し、子どもの不安を解消するために抱きしめるという行動をしています。
「泣く」・・・・何となく理解できるという自分です。

この分析が正しいというわけではありません。違いを理解していただきたいという思いから3つに分けてみました。

言葉を使うことに慣れている私たちは、かなり言葉でやり取りをし、その言葉から本質を探ろうとする傾向があります。

しかし、私たちが身につけている能力は、これだけではありません。
五感情報すべてを駆使し、相手を理解しようと努力すれば、言葉以上のものを相手から感じることができます。

「あの人に裏切られた。許せない。」と思う事がありますが、ひょっとするとある一面だけをとらえて、判断していたのかもしれません。
その人の本質を眺めることができたら、きっと「そういう面もあるかもしれない。」と思い、「裏切られた」「許せない」などと言う言葉は出ないかもしれません。

仕事に感情を持ち込むことで楽しくなったり、辛くなったりします。この感情の判断ではなく、仕事の本質から眺めてみると、辛い仕事でも、しなければならないと思えるかもしれません。

組織の中に苦手な人がいるとなかなか辛いものです。でも、組織の本質がわかったら、どのように対応すればよりよい組織になるのか考えて、苦手な人にうまく対応できるかもしれません。

夫婦関係でも、互いの欠点が見えてきて嫌になることがあるかもしれません。そして、価値観が違うと相手を責めることがあるかもしれません。でも、愛の本質から眺めてみると、価値観がそれほど重要ではないと思えるかもしれません。

子育ては、大変でかなりのエネルギーを使います。子どもの行動に腹が立ち、感情がむき出しになって疲れ果ててしまいます。でも、子育ての本質から眺めてみると、子どもの行動が理解でき、腹が立たなくなるかもしれません。


長い人生を生きることに疲れていると感じるかもしれません。ひょとすると、死にたいと思っている人もいるかもしれません。でも、生きることの本質から眺めてみると、今の状況も意味があるものと理解できるかもしれません。


人間不信になって、人と関わりたくないと思っているかもしれません。でも、人間理解の本質から眺めてみると、自分と人とが同じに見えて、人が恋しくなるかもしれません。


本質を探ることは、五感を通して、本質につながる情報を多面的に多く集めなければなりません。

本質がわかったと思っても、ひょっとするとそれはほんの一面を知っただけかもしれません。

まずは、行動です。行動することは、五感情報を多く得ることになります。

わからなければ、尋ねることができます。
わからなければ、行動して試すことができます。
わからなければ、今の自分から離れて、広い視野から観察することができます。

本質が見えると世界が変わります。