こちらは、『みっともない日本のバカたち』(川原崎剛雄)の書名で、もう2年も前に発行されたもの。手に入れたのは最近だが、よく本屋さんに残っていたなと感心する。


同書でトップを飾る「バカ」は、この国の現宰相・小泉純一郎さんである。自分は聞き逃したが、小泉は2003年9月の臨時国会所信表明で、司馬遼太郎が子どもたちに向けて贈ったという言説を引いて、「人間の素晴らしさは、自分のことを悲観的に思わないことです」とやったそうだ。


かねて司馬のファンを自認する小泉らしいが、ここでは、悲観論からは新たな挑戦は生まれないからと、自らの挑戦パフォーマンスを正当化し、補強するために引用したものであるよう見受けられる。薄っぺらな権力者に、薄っぺらな目的で利用されると、珠玉の名言もたちまち有り難味が失せてしまうから不思議だ。


だが、先を読むと、これは小泉の誤謬ではないかというような指摘が暗になされているようだ。というのは、司馬が書いたそれらしき本の中に、そういう言葉は見つからない、と著者は記しているからだ。


それより何より、生前の司馬は自分の言葉が安直に利用されることを最も嫌っており、「経営者やビジネスマンが、私の書いたものを、朝礼の訓示に安直に使うような読み方をされるのはまことに辛い」と述懐していたという。


であるならば、小泉の“司馬ファン”は、いよいよ怪しい。まあ、こういう言葉の薄っぺらな引用の仕方と、思慮や論理性に欠ける情動的なアジテーションはこの人の常だが、こういう人物の口の端に上らされる言葉こそ哀れである。


アニメ映画監督の宮崎駿氏が司馬の生前の言葉としてある対談で紹介していた「日本人はみっともなくなりました」を取り上げ、小泉こそがその「みっともない日本人」の代表だと、著者は評している。


これもなかなか面白い「バカ本」なのだが、ただ、前日取り上げた『まれに見るバカ』とは異なり、「バカ」の標本数が極度に少ない。 その中に、さして影響もないであろう、岩月謙司などという名も挙がっている。そして、『まれに見る』と共通して取り上げられている「バカ」が二人いる。それが、田原総一郎と佐高信である。このご両名はよほど人気者なのか、あるいは「バカ本」における定番なのか?


しかし、他の「バカ本」と異なり、この本はタッチがあまり軽快でなく、読後感もかなり重苦しい。特に、小泉を酷評した返す刀で、司馬遼太郎を批評しているところである。


司馬に対しては、相当の尊敬と一定の共感を表明したうえでの批判である。それだけに、やはり重い。ただ、その作品に潜んでいる「欺瞞性」を問題にしているのである。槍玉に挙がるのは、司馬の数ある作品の中でも代表作の一つに数えられるであろう『坂の上の雲』である。東洋の一弱小国であった日本が、「坂の上の雲」のようにまばゆい欧米列強をひたむきにキャッチアップしようという時代の精神を描いて、国民的人気を勝ち取った作であろう。


福沢諭吉を評価する司馬は、その「脱亜入欧」論には若干の苦々しさを覗かせながらも、その福沢に象徴される明治という時代の精神を「江戸期から継承してきた明治の気質とプロテスタントの精神とがよく適った」と称揚する。司馬が言う「プロテスタントの精神」とは、マックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で示した「勤勉・節約の精神」である。


しかし、明治という時代の美化に傾斜するあまり、そこで行われた列強と日本の対立に源を発する侵略戦争の本質や植民地支配に関わる歴史の側面が見事に隠蔽されてしまっている、というのが著者の論旨であるようだ。


また、『坂の上の雲』は「軍国主義ととられるおそれがある」として、当の司馬遼太郎が生前は映像化を許可しなかった作品だという。


奥付を見ると、著者は司馬遼太郎をテーマに2本の論文を物している、司馬の研究者とも見える。だとするなら、この著者の司馬評も、少しまじめに受け止めておこうという気になった。

川原崎 剛雄
みっともない日本のバカたち