秦先生の「慰安婦と戦場の性」358頁~366頁に呼び方の一覧が掲載されています。1932年第一次上海事変後、上海派遣軍や上海総領事館などの文書に「軍娯楽場と接待婦」「海軍慰安所と酌婦」などの表現が出てきます。

 このころ、上海の在留民間日本人は、1万人を超え、日本人街を形成し女郎屋も営業していました。第一次上海事変が始まる前は、日本海軍の上海特別陸戦隊は1800名が駐屯していました。戦闘が始まると陸戦隊7千、3師団4~5万、1旅団3千の増援を行い、4ヶ月の戦闘後、停戦し増援部隊は帰国します。


 1905年の関東州民政署の「芸妓酌婦及雇婦女取締規則」「娼妓取締規則」において、日本人の「娼妓」を認めず「芸妓、酌婦」の営業を認めたことを軍は踏襲します。軍は、表向き醜業の娼妓を認めていません。赤十字の救護看護婦は軍属として規定されましたが、接待婦、酌婦、後の慰安婦は軍属として認められませんでした。


 1937年8月に第二次上海事変が勃発、松井石根司令官率いる上海派遣軍と杭州に上陸した第10軍が国民党軍を追い、12月には南京入城を果たします。この後日本軍の駐留が始まり、南京を拠点として奥地の国民党軍との戦いを進めます。この予定外の南京攻略戦に投入された増援部隊は、武器弾薬や食料の補給も不十分で、南京に至る道筋で略奪、強姦がひどく、松井司令官が各司令官に「軍紀ヲ緊粛スヘキコト」と通達を出す始末になりましたが、間に合わず、戦後、この問題でA級戦犯として処刑されました。


上海事変と南京陥落については下記をご覧ください。

日中戦争、太平洋戦争の記録
東海大学 鳥飼行博研究室

http://www.geocities.jp/torikai007/war/war-index.html


 この南京駐留に、内地の女衒が多くの女性を募集し南京や拠点都市に輸送します。

1939年1月には第11軍の資料に「特殊慰安所と特殊慰安婦」の呼び方が現れます。この後戦時総動員体制になり、日本軍の南方への進出に伴い、この表現が定着していきます。


 「従軍慰安婦」は、1971年「週刊実話」に登場します。1973年には千田夏光氏が「従軍慰安婦」を双葉社から刊行し、造語として運動家が取り上げて行きます。(千田氏は、元毎日新聞記者で、不破哲三元共産党委員長の後援会長との情報あり)
http://38300902.at.webry.info/201105/article_9.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E7%94%B0%E5%A4%8F%E5%85%89


 慰安婦が軍属になるのかという議論は、第058回国会 社会労働委員会 第21号 (昭和43年4月26日)で、政府が次のように答弁しています。

(国会会議録よりコピペ)

[010]後藤委員
 大臣のほうが、時間が十分ないそうでございますので、まず第一番にお尋ねいたしたいと思いますのは、大東亜戦争当時、第一線なり、いわゆる戦場へ慰安婦がかなり派遣されておったと思うのです。私も内々これらの派遣されたいきさつにつきまして、できるだけ、どういうふうな計画でどういうふうにやられたかを調べようと、かなり苦心をしたわけでございますが、聞くところによりますと、無給軍属ということで派遣をしておる。さらにこの派遣につきましては、それらの業者と軍との間で、おまえのところでは何名派遣せよというようなことで、半強制的なようなかっこうで派遣されておるというようなことも私聞いておる次第でございますが、さらにこれらの派遣された慰安婦につきましては、戦場におきまして、戦闘がたけなわになると、あるいは敵の急な襲撃等があった場合には、看護婦の代理もやっておる。さらに弾薬も運ぶというような、さながら戦闘部隊のような形でやられておるというような実績もかなりあると聞いておるのです。
 いま申し上げましたような、この慰安婦に対する現在の援護法の適用の問題でございますけれども、これも、過去において五、六十名適用したこともあるというようなことも聞きました。これは、たとえば自分の家族なりきょうだいなりが戦場に派遣された――振り返ってそういうことは言えるわけでございますけれども、しかしながら、あまりかっこうのいい話ではございませんので、言いたくても言わずにしんぼうしておる人があるんじゃないかというふうなことも推察できるわけなんです。いま申し上げましたような、先ほど言ったように、戦場で、あるときには戦闘部隊になり、あるときにはたまを運ぶ、あるときには兵隊さんを肉体的に激励する、こういうふうないろいろな苦労をした慰安婦に対しまして、この援護法との関係、いままでの経過、さらにこれからの問題につきまして、どういうふうな方向をとっていこうとされておるのか、この点につきまして大臣にお伺いをいたしたいと思います。

[011]園田大臣
 ただいまの御指摘の問題は、その実情が、海軍と陸軍とで関係も違っておりますし、それからもう一つは、戦争の初めごろと終わりごろとではまた資格、契約等のことも変わっておるようでございます。また終戦後の混乱時については、御指摘のような点もございますが、事の本質上、この問題として援護することは実態もなかなかわかりませんし、調査も困難でございますので、じかにこの問題として取り上げることはなかなか困難な問題が多いわけでございますが、委員の御指摘の点、私もそのように考えますので、たとえば無給軍属の契約をしておる、あるいは戦争の混乱時で後方勤務をやったとか、あるいは弾薬運びをやったとか、あるいは看護婦さんの仕事をやったとか、そういうものはそういう面からできるだけ広げていって、将来こういう方々にも何とかお報いができるような方針で、事務当局で検討したいと考えております。

[012]後藤委員
 いま大臣が言われたのは、こちらがやかましくてあまり十分聞き取れなかったわけでございますけれども、私はこのいま申し上げました問題について、別に厚生省なり政府としても、そういう関係にあった者については援護法を適用しますというようなPRも全然していないと思うのです。さらに通達その他につきましても、例示等をして、こういう件については援護法が適用されるのだ、こういうふうなことも全然されておらないと思います。先ほど言いましたように、五十名ないし六十名が適用されておるというのは、だれかに聞いて、聞いた者だけがうまくやったと言うと語弊がありますけれども、そういう人だけは適用されたのではないかというふうに思うわけでございますけれども、当時大臣も兵隊に行っておられて、慰安婦等の数なりその他につきましては、千名や二千名ではなかろうと思います。おそらく数千名の慰安婦が第一線なりその他多くの戦場に派遣されておった、これはもう間違いないと思うのです。その中の、先ほど申し上げましたような犠牲者が、全部うまく把握されて援護法の適用をされておるかというと、そこまではいっておらないと私は思います。それなら一体、先ほど申し上げましたような条件にある人を、その援護法の適用対象にする、そういうようなことになったといたしますと、それなりの何かの手続をしていただかないと、せっかくそういう条件にありながら、ありがたい法律が適用されないことになってしまう、こういうふうに思うわけでございますけれども、その辺のところはいかがでありましょうか。

[013]実本政府委員
 いま先生のお話にございますいわゆる慰安婦と申しますか、そういった人々の問題につきましては、援護法のたてまえからいたしますと、先ほど大臣も申し上げましたように、ちょっとそういう見地からの適用のことを考えたことがございませんので、実は何らそういう面からの実態を把握いたしておりません。ただ、大臣が先ほど申し上げましたように、現実に本来の尉安婦の仕事ができなくなったような状態、たとえば昭和二十年の四月以降のフィリピンというような状態を考えますと、もうそこへ行っていた慰安婦の人たちは一緒に銃をとって戦う、あるいは傷ついた兵隊さんの看護に回ってもらうというふうな状態で処理されたと申しますか、区処された人たちがあるわけでございまして、そういう人たちは戦闘参加者あるいは臨時看護婦というふうな身分でもってそういう仕事に従事中散っていかれた、こういうふうな方々につきましては、それは戦闘参加者なりあるいは軍属ということで処遇をいたしたケースが、先ほど四、五十と申し上げました中の大部分を占めておるわけでございます。したがいまして、こういう人たちの実態というものは、先生が先ほどちょっと触れられましたように、現実には何か相当前線の将兵の士気を鼓舞するために必要なわけで、軍が相当な勧奨をしておったのではないかというふうに思われますが、形の上ではそういった目的で軍が送りました女性というものとの間には雇用関係はございませんで、そういう前線の将兵との間にケース、ケースで個別的に金銭の授受を行なって事が運ばれていた模様でございます。軍はそういった意味で雇用関係はなかったわけでございますが、しかし、一応戦地におって施設、宿舎等の便宜を与えるためには、何か身分がなければなりませんので、無給の軍属というふうな身分を与えて宿舎その他の便宜を供与していた、こういう実態でございます。いま援護法の対象者としては、そういう無給の軍属というものは扱っておりませんで、全部有給の軍属、有給の雇用人というものを対象にいたしておりまして、端的にいいますと、この身分関係がなかったということで援護法の対象としての取扱いはどうしてもできかねる。しかしながら、先ほど申し上げました例のように、戦闘参加者なり、あるいは従軍看護婦のような臨時の看護婦さんとしての身分を持った方々につきましては、そういう見地から処遇をいたしておるわけでございまして、もしそういう意味での方がこういう方々の中にまだ処遇漏れというふうになっておりますれば、援護法は全部申請主義でございますので、そういう人があれば申請していただくということになるわけでございます。ただ、時効の問題その他ございますが、そういう面で援護法の適用をそういう方々にしてまいりたいというのが、このケースの処理としていまのところ援護局と申しますか厚生省の態度でございます。

[014]後藤委員
 そうしますと、いま言われましたように、たとえば第一線へ派遣されたその人らが戦闘に参加した、あるいは看護婦という身分にはなっておりませんけれども、看護婦と同じ作業に従事させられたというとおかしいのですが、従事した、それでなくなった、こういうふうな人もあると思うのです。それらの人に対しては援護法を適用してもよろしい、そういうことなのですか。

[015]実本政府委員
 いま先生のおっしゃいますようなケースといたしましては、戦闘参加者なり、あるいは臨時看護婦としての身分でなくなられた人については、当然請求をしていただいて裁定する、こういうことに相なります。

[016]後藤委員
 そうしますと、いまあなたが言われたように、当時第一線なり戦場へどれくらいの数の慰安婦が派遣されておったか、数千人だろうというふうな想像をいたしておるわけでございますけれども、これらの中に、先ほどの援護法を適用してもよろしいというような条件に該当する人があったとしたならば援護法の適用をされるわけなのです。ところが、局長も言われるように、これは申請しなければ問題にならない。しかしそれらの条件に該当する遺族なりそれらの人は、全然そういうことを知らないと思うのです。百人のうち一人や二人は知っておる人があるかもしれませんが、ほとんどの人がわからない。わからなければ申請をしない。申請をしないからこのままいくのだ、こういうふうなかっこうに進んできたのが今日であり、これからもそういうふうになるのではないかと思われるわけでございますけれども、局長がせっかくそこまではっきりきちっと言い切られましたら、それらの条件に該当する人については、これは援護法の適用がされるのだということで、やはり連絡なり、PRなり、通達なり、それらに十分なる手配をとっていただく必要があると思うのです。
 それと同時に、こんなことを申し上げるとまことに失礼かもしれませんけれども、それらの条件に該当する人は、生活も裕福な人は少なかろうと思うのです。いわば生活に非常に苦しんでおられる家庭の人が多いのじゃないか。しかも遺族の人も、まことにいい話ではございませんので遠慮しがちになってくる。全然声が出てこない。そういうところへこの援護法等の適用につきましても手を差し伸べていくのが政治の力であろうと私は考えるわけです。だから、これは具体的に局長として、いま申し上げました問題をどう進めていこうとされておるのか、もう少し具体的にお答えいただきたいと思います。

[017]実本政府委員
 先生のおっしゃることはまことにごもっともなことでございまして、単にいま先生のおっしゃるケースだけではなくて、やはり同じような法の適用が受けられるケースというもので、現実には当たっているのだけれども、当たっているかどうかわからないままに、たとえばこれは、法律ができましてからいろいろな請求の時効は七年の期間を与えておりますが、七年間徒過してしまったというふうな人がほかにもあるわけでございます。特に援護法とか恩給法とかいうものは、非常に難解でございまして、そのときそのときでまたいろいろ範囲の拡張とかあるいは給付の対象になる人の拡大とかいうふうな改善が行なわれまして、継ぎはぎ継ぎはぎで、専門家が見ましても非常に難解な法律になっておりますので、その点は特にそういう方々にとっては、条件の逆に働いている場合だと思います。ただここで私が申し上げましたように、現にこういう方々であって、援護法上の準軍属なり軍属として処遇されていた方々は、これはもうはっきりとそういうケースとして、軍のほうから戦闘参加を要請したというケースが事実としてあり、あるいは日赤の従軍看護婦のような臨時に雇った者につきましては、そういう事情がございます。それから、ある前線からある前線へ大量の人を輸送船で運んでいた。それが海没したような場合につきましては、はっきりそういう人たちのケースがわかっておりますので、ほんとうに先生がおっしゃられるような準軍属なり軍属として取り上げてもいいような人たちについては、おおむねそういうケースとして処遇してきたつもりであります。しかし、それの数は、さっき先生が言われましたように、われわれのほうとしても的確な数字を持っておりませんが、大体四、五千というふうなことを聞いております。そのうちの四、五十人ということでございますから、あるいはまだほかにそういったケースも、知らないために眠っている、あるいは泣いているという方があることが考えられます。これは援護法のほかの対象者にもそういうことがございますので、この問題のみならず、常にそういった人たち全体についてのRRなり徹底の方法といたしまして、月並みではございますけれども、年に二回、都道府県の部課長会議を開いて、そういった意味での徹底を、窓口でございます市町村の援護係のほうにさせるようにやっておるわけでございます。そういった都道府県、市町村のルートを使いまして、こういった問題、特に法律改正があるとか、あるいはいろんな特別措置が行なわれるとかというようなことになりますときには、その問題と同時に、そういう意味でのPRをして、一人でも漏れのないようにしていくということをやっておるわけでございますので、そういう際には、こういうケースは必ず徹底するように運んでいく、いまの段階ではそういうことを考えております。
(以上国会会議録)


会議録検索は下記から
http://kokkai.ndl.go.jp/

 この国会での議論は、極限的な戦闘下で、慰安婦が看護や補給支援を行って行く事例であり、一般化すべきではないと思います。また、軍の要請で輸送船に乗っていた人々が、海没した場合は、准軍属なり軍属として認めると答弁しています。民間人の慰安婦の移動については、軍の要請であるとは言っていないし、それまでの業者の活動と軍との関係から、強制性あるいは軍の公式要請があったのではないと解釈するのが自然と思います。


 私は、「従軍慰安婦」は存在しなかったと理解しています。また、戦後造語された言葉を使用することが従軍慰安婦を認めることになるので使ってはならないと自分に言い聞かせています。