4.金福童さんの戦後

 金さんの証言の最大の疑問は、終戦後どのようなルートで韓国に帰国したか、帰国してから「元慰安婦」として名乗り出る1992年までの間、どのように生きてきたか、であると思います。


コリア・ヘラルド 2014年8月27日
http://www.koreaherald.com/view.php?ud=20140824000084
1939年14歳で連行され、釜山、台湾、南方に移動、慰安婦として働く。
1948年22歳の時韓国に戻り、釜山でレストランを経営。
結婚もしていなく子供もいない。


カソリック・レジスター 2014年8月19日
http://www.catholicregister.org/home/international/item/18651-former-sex-slave-says-she-still-feels-impact-of-meeting-with-pope-francis
釜山近郊の農家で育った金さんは、14歳の時、日本軍に連行された。性奴隷として8年間。結婚をしていない。1960年代初期に、苦労して、レストランのウェイトレスからオーナーになった。


Aleteia 2014年8月28日
http://www.aleteia.org/en/world/article/the-comfort-women-of-korea-what-difference-did-the-pope-make-5794411388600320

Grimaldi has attended some of the demonstrations and met with the victims. On one occasion, he spoke with an 85-year-old woman who was taken by the Japanese army when she was 13.
13歳で連行された。

“She traveled all over Asia to serve the Japanese military, in China, Malaysia, Hong Kong, Singapore. At the end of the war, she was left with no money nor a place to stay. Only when she met American soldiers she was offered the help to get the documents and money she needed to return to Korea,” he said.
日本軍について、中国、マレーシア、香港、シンガポールをまわった。戦争が終わったとき、金も住むところもなかった。米軍兵士だけは、韓国に戻るのに必要な書類とお金を作るのを助けてくれた。


PRLog (Press Release) - Jul 16, 2012 カルフォルニア州立大で
http://ianfukangaeru.blogspot.jp/2012/08/blog-post_2.html
1941年15歳の時連行され、1945年終戦時に米軍の捕虜になり、1年後20歳の時韓国に戻った。しかしその後1992年までの間のことは話していない。


2012年9月23日の大阪集会での呼びかけのチラシ
http://blog.livedoor.jp/woodgate1313-sakaiappeal/archives/16168884.html
1926年生まれ、1941年連行、台湾、広東、香港、シンガポール、スマトラ、インドネシア、マレーシア、ジャワと軍隊と共に移動。1946年帰国、その後釜山で結婚、子供はできず、夫とは1981年死別。


「推測」
 金さんの戦後から1992年までの動向が語られていません。2014年8月ローマ法王が訪韓され、8月18日のミサに7人の元慰安婦を最前列に並ばせました。この時の報道に、金さんが、終戦後帰国し、ウェイトレスで稼ぎ1960年代初期にレストランのオーナーになったと書かれています。

 2012年大阪では戦後結婚したと申告し、2014年ローマ法王訪韓時には、未婚であると語っています。どちらが正しいのでしょうか。


 また、帰国にあたっては米軍兵士の助けを借りたと言う話は、終戦時の状況から事実と異なる話であろうと思われます。終戦時、第16軍病院あるいは南方軍第10陸軍病院に勤務したとの証言がありますが、その病院の詳細や、引き揚げ時の状況(日時、出港した港、船舶名、帰還港)、帰国してからの生活を語るべきと思います。


 ウェイトレスとは、当時「女給」であり、昼と夜の営業を行っていたと言われています。金さんが帰国して生活を維持するには、結婚か醜業に就くしかない状況だったと思います。結婚していなければ、女性一人で生きて行かねばなりません。

 米軍の収容所に入った、米軍兵士の助けを借りて帰国したとの証言は、南方軍の敗戦・復員の状況とは全く異なり、もしかしたら、日本軍に付いて南方に行ってはいないのではないかと考えられます。

 日本の敗戦と共に連合軍が朝鮮半島を統治した時(1946年20歳)に、醜業に就く道を選んだと考えれば、米軍の話は納得できます。1960年代初期(ほぼ35歳)まで、売春と米軍慰安婦の醜業を営み、その蓄えでレストランのオーナーになったと理解するのが妥当と思います。

従って、金さんは、1945年から「日本軍の慰安婦」に名乗り出る1992年までの人生を語れないのだと思います。


南方軍病院
(南方軍復員史 第6巻 101頁より)


南方軍直  シンガポール
南方第一陸軍病院、南方第三陸軍病院
第150兵站病院


第29軍 レンパン
南方第八陸軍病院
第150兵站病院、第151兵站病院、第155兵站病院


第16軍 ジャワ
南方第三陸軍病院、南方第六陸軍病院、南方第七陸軍病院
第109兵站病院


第25軍 スマトラ
南方第九陸軍病院、南方第十陸軍病院、南方第十七陸軍病院

ビルマ方面軍 ビルマ
第106兵站病院、第107兵站病院、第118兵站病院、第121兵站病院


第18方面軍 シャム(タイ)
南方第十一陸軍病院
第100兵站病院、第133兵站病院、第124兵站病院、第149兵站病院


第2軍 セレベス
南方第十五陸軍病院、スリリ陸軍病院
第125兵站病院、第126兵站病院、第150兵站病院


第37軍 ボルネオ
南方第十一陸軍病院
第147兵站病院


第38軍(印支) ハノイ
南方第二陸軍病院、南方第四陸軍病院
第149兵站病院