10月8日(土)、B2リーグで、パスラボ山形ワイヴァンズと茨城ロボッツが、初の公式試合を行う。

その夜、茨城ロボッツの山谷社長と、パスラボの幹部が、山形市の「辰ずし」で、久しぶりに会食をした。



今年に入ってから、山谷社長との会食は、何度か予定されていたが、双方が忙しく、なかなか調整がつかず、この日となってしまった。




実は、山谷社長は、パスラボの設立に大きく関わってくれた恩人である。


当時、NBL・NBDLの山谷専務理事から、参入を認める電話が来たのが、2013年8月8日(木)の午後5時50分であり、その翌日の、2013年8月9日(金)に、株式会社「パスラボ」の創立総会と、参入記者会見を開いたのである。


リンク栃木ブレックスの鎌田社長から、栃木の下部団体のNBDL2部の「TGI・Dライズ」を譲っていただき、リーグに申請をし、受理されたのである。



あっという間に、電光石火のような、プロバスケットチーム参入だった。



田臥選手を擁する現在の栃木ブレックスの鎌田社長も、Dライズの譲渡契約を発表するために、山谷専務理事と山形まで来てくださった。



当時のパスラボ山形ワイヴァンズの、金澤ヘッドコーチ、キャプテンの鳴海や石川も、Dライズの所属だった。
鮫島は、山谷・鎌田のご好意で、レンタルでワイヴァンズに来ていたのである。




そもそも、bjリーグの仲野社長から勧誘された山形であるが、それをひっくり返し、NBDL参入を決めたのが、この二人の師弟コンビなのである。

元々は、山谷氏は、リンク栃木ブレックスの創立社長であり、鎌田氏は選手であった。

山谷氏が、bjリーグとの合併も見据えて、NBL・NBDLリーグの専務理事に引っ張られたのを契機に、鎌田氏が栃木ブレックスの社長となったのである。

その後、何回か、皆ご一緒し、大騒ぎをしたのである。

まさに、バスケット界の『黎明の時』であった。



その日の創立総会から、すでにマスコミ全社が集まり、注目度は凄かったと思う。




それから、たった3年足らずなのだが、バスケット界は、大きな変革期を迎える。

リーグを牽引していた山谷専務理事が、破綻寸前の「茨城ロボッツ」の前身の「つくばロボッツ」の社長に、請われて就任され再建に当たったのである。

彼は、必要とされた限りは、やらなければならないとの思いだったと、鴨鍋をつつきながら話す。

当初から、山谷社長が再建したチーム「茨城ロボッツ」は、侮れない…と、思っていた。

リンク栃木ブレックスを創立し、田臥選手を勧誘し入団させ、日本一にした男である。

今回の初戦は、20点以上差をつけられて、完敗であった。

しかし、気持ちが良い、活き活きとしたチームを作られたな!と、敬意を抱いた。

負けたのは残念だけど、よく、この短期間で、会社とチームを建て直したと感動していたのである。



翌日は、その茨城ロボッツに対して、30点以上の差をつけて、石川の現役引退試合を勝利で飾れた。

石川の最初の就職先の社長が、山谷社長だったのである。

天の配剤だと思った。




この日は、松茸ずし等を食べ、皆はビールやヒレ酒。



のどぐろも美味しかった。






辰ずし名物の鴨鍋を、今シーズン初めて食べる。




中ずしと、〆ずし。



これからも、試合は試合としての真剣勝負で、それ以外は、いつまでも、兄弟関係を続けることを約束し、二次会へ向かう。

車の中から、栃木ブレックスの鎌田社長へ、「お前も山形に来いよ!」と山谷社長。
自分も話し、年末か年始に、山谷社長、鎌田社長など、みんなで山形で、忘年会か新年会をやろうと決めた。

この日は、山谷社長率いる茨城ロボッツがB2リーグ1位、鎌田社長率いる栃木ブレックスがBリーグ1位になった日であったのは、偶然なのか?

自分は、その両社長と話したのも運かあるのかもしれないと、思った夜であった。