早川徹さんの葬儀に、笹原君と参列してきた。

享年80歳だから、自分の父が生きていたら同じ歳だと思った。

ご長男の一郎氏と自分の出会いは、15歳の時。

我が山形一中剣道部は、山形市内では負けたことがない3年連続優勝で、県大会出場。

敵地南陽市へ乗り込む。
めっちゃ強いなと、始めから光りを放っていたのが赤湯中のメンバーであった。

県大会の決勝は、予想通り赤湯中対山形一中。

負けた…上には上がいるものである。

その時の赤湯中主将が、早川一郎氏であった。

その後、高校は別だったが、赤湯中と山形一中のやつらが日大剣道部を引っ張って行っていた。

自分は、剣道を途中で辞めたが、付き合いは続いている。

笑顔を絶やさない、とても人間力がある友人と思っている。
山形銀行がピッタリ。


その弟洋二君との出会いは、もっと運命的であった。

会社を立ち上げる時、経理をする人がいなかった。
会計事務所に勤めている経理が分かる人を募集した。

27歳の早川洋二君が面接にきた。

即合格で、そこからずっと会社の経理部門を担当してくれていた。


あの日までは…。

2年半前に、ある会社で起きた混乱。

嘘と虚偽を広げ、人を人とも思わず苦しめた輩達…今は、ほとんどその会社からいなくなっている、いや、いれなくなっているのだろう。


陰で姑息な手段と嘘で、同じ会社の仲間達を追い詰めていった。
自分達だけの理論武装と保身の為に…。
洋二君が1番傷ついた。

その時の中心人物は、それから一年半後に自分に平然と言った…「あれは、謀反、クーデターだった。自分は周囲から煽られた…」と。

その事件の半年後、自分の家に夜、8人の執行部が集まった。

彼等のやり方を許さないことを、8人の執行部は決めていた。
それぐらい、みんなの心には不快な行為だった。

それを本人達は気がついていないところが、不幸である。


今日久しぶりに会ったが、洋二君と奥さんは泣いていた。

笹原と自分も涙した。

彼の人生をこのままにはできないと強く思った。
同時に、あの時の怒りが込み上げてきた。

洋二君の二人の子どもさんは、大きくなっていた。

少し落ち着いたらゆっくり話したい。

洋二君の奥さんのお父さんとも話しをした。
洋二君の義父が、いろんな局面で、洋二夫妻を支えたのは洋二君から聞いていた。


一郎氏と洋二君のお母さんは、10年も前に亡くなられた。
洋二君が仕事をしていて、お母さんが具合が悪くなり、早退したのを覚えている。

徹さんは、洋二君に、自分と彼の関係を『くもの糸で繋がっている話』を比喩的に、以前に話されたことを、自分は覚えている。


父と母が亡くなり、奥さんと子ども達を守りながら生きる彼のこれからの人生。

それを、きっと天に召された徹さんも心残りだったのではなかったか。


明けない夜はなく、春は必ずやってくる。

また、一緒に笑って仕事ができる日を、待っている。

ある会社の小さいけれど、各人のこれからを大きく変えた事件。

自分が1番嫌いなことは、卑怯で卑劣で姑息なこと…ずるいことである。

そんな人には天罰が降ると信じている。


早川徹さんが導いてくれた再会。

ご冥福をお祈りいたします。


合掌。