*前記事の情報募集に沢山の情報頂きました。ありがとうございます。

プシコナウティカにオルタナティブ活動にも関する素晴らしい記述があったので、紹介します。

不確かな道を歩みだす

 日本の精神医療の現場で働く人たちはしばしばこういう質問をする。イタリアの精神医療改革の理念は分かった。だが実際具体的に、興奮して暴力的になっている患者を前にして一体どうすれば良いのか、目の前に、今にも自殺しかねない危険性のある人が居たらどうするのか、と。
 人はいつも、正しい答えを欲しがり、具体的な技術とマニュアルを求める。つまり「確かさ」を欲する。「不確かさ」に対する不安、「確かさ」への欲求こそが、精神医学の知を支えてきたものだというのに。診断マニュアルは、あくまでマニュアル以上でも以下でもないということなのだ。フェデリコ医師たちが語っているのは、マニュアルや技術の事ではない。それはまさに「技術以前」の話なのである。
 前記の問いに対しては、唯一の正しい答えがある訳ではない。ただ「確かさ」の砂の城である精神医学の知を持って、「やはりその場合は入院させなければならないし、拘束や隔離もやむを得ない」とほとんど自動的に答える以外の道があるということなのだ。それは「不確かな」な道である。しかし、「確かさ」を求めて専門性に閉じ籠り、その専門的な知の機能を行使することがもたらす破局的な結果を自覚したものは、たとえどんなに不安であっても、勇気を持って「不確か」な道を歩み出すことになるだろう。
 その時、自分は何の武器も、何の道具も持っていないということ、その孤独を深く自覚することが新たな可能性を開く。苦しむ人間をそこに認め、その傍らで耳を傾けている看護師を認め、一緒に働く可能性を開く。そこに苦しみや困難を抱えた本人と共に、チームで問題に関わる可能性が開かれるのだ。何故なら、その苦しみや困難については、本人以外は誰であっても素人でしかありえないからである。「本人が主人公であること」の重視や、多職種のチームという「もののやり方」はこの延長に現れる。
 したがって、多職種のチームといっても、通常理解されているように、異なる専門性を持った複数の専門家による表面的なことが問題なのではない。精神医学の専門家は確かに精神科医であった。精神病院は、精神医学の論理を空間化した施設であり、そこでは専門家の序列にしたがって、精神科医を頂点とする垂直的なヒエラルキーがあった。だがイタリアでは、「確かさ」の上に築かれていると信じられていた精神医学の論理自体が括弧入れられたのである。もはや専門家はいない。ここにこそ、<精神医学/精神医療>と<精神保健>の決定的な違いが存する。


専門家でない私が、常にさらされる批判に対する反論が此処にはある。
また、オルタナティブな取り組みに全ての人が参加できるという理由も提供してくれている。

しかし、このプシコナウティカを読んでいて愕然とするのは、
今、私が取り上げている論議は、もう半世紀近く前に、欧州や米国で議論されていたという事実である。
『精神医療に代わるオルタナティブの国際ネットワーク』(バザーリアが提案)の1977年の集会には欧州、北米、南米から4000人もの参加者を集め、
精神医療に関わる諸問題が話し合われていることである。

我々の主張が議題にも上がらない現代日本の状況をみれば、ますます絶望的になる。
だが、彼らに出来たことが我々日本人に出来ないと決めつけることも出来ない。とにかく足掻く以外にない。

このプシコナウティカは、この問題を理解する上で大変示唆的である。
医療化の問題、施設化の問題、治療的コミュニティの役割など、私の稚拙な表現力では著わしきれない概念を上手く描いてくれている。
少しづつ紹介しますが、是非、皆さまにも一読願いたい(高っかいけど)。

5月30日 岡山
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我が国の精神医療と福祉の功罪を問います。
5月31日 島根 松江
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6月6日 熊本
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6月より、大阪と名古屋で、月一でオルタナティブ活動の実践を目的とした取り組みを始めます。
相談会・対話会 
毎月第4木曜日 名古屋
毎月第4金曜日 大阪