昨日は、命日でした。

1年目は、ただただ、ひたすら逃げ回った。彼女を思い出す全てのものから。
近づくことさえ出来ない場所、乗れない電車、入れない店。
それから逃げるように、一月も経たないうちに別の町に引っ越しをした。
知らない場所に行きたくて一人旅も沢山した。

2年目、おつきあいをする女性が出来た。
同じように、深い理由のあるヒト。
一緒にいる間中、お互いに傷に触れないように振る舞った。
それでも、部屋には彼女の写真を飾り、毎日花を添えた。

3年目、傷を舐め合うこと疲れ、お別れをした。
まだ、未来を語ることは私には不可能だった。
別れはいつも哀しいが、これくらい耐えられることは知っていた。
それは終わりでもなんでもない。そんな心の傷はすぐに癒える。
彼女に花を飾る日が少し減った。

4年目、忘れるために始めたサルサが上達した。毎日毎日踊ってたら上手くもなる。
そして、裁判を起こすことした。もう逃げている時間の余裕はなかった。
新聞記者に見いだされ、取材を受けるようになった。記者は、記事の裏付けを取るために、容赦なく、私の記憶を残酷なほど呼び起こした。結局、私は何も忘れてはいなかった。

5年目、命日の夜、夜中にFAXが送られてきた。
新聞記者からだ。
それは、東京都医務監察院の中毒死のデータが記された監察医の論文。
そのデータには、彼女自身が含まれていた。
私は、決定的な証拠をつかんだ。
これを公開せねばならないと決意した。
記者は、私を政治家や厚労省に連れて行き、そこで、他の被害者と初めて会った。
みんなの党の柿沢氏によって、これは国会で取り上げられることになる。

6年目の命日、昼間に医療ジャーナリストの伊藤氏の取材を受けた。
それまでの5年間をまとめた手記を読んでくれたのだ。
それからの伊藤氏の活躍は、皆さんご存知のとおり。
その手記を書くことを奨めてくれたのは、『救児の人々』に登場する(していた)鈴井さんです。
彼女から、つい先日頂いたメールには、命日には何かあると記されていた。

7年目の命日、弁護士から連絡があった、それは裁判の鑑定医の面談の連絡だった。
そうか、今年はこのことだったのか。
先日、ついに彼女の死にまつわる薬の影響の全てを説明することが出来た。
裁判において出来ることは、全て揃った。
今年は、ついに決着が着く。

何か偉大な力の存在を感じさせるドラマがある。もはや偶然と思うことは不可能だ。


気が付けば、彼女の死を涙なしで語れるようになっている自分がいる。
今日は、彼女の墓の前で、一人そのことを詫びた。
せめてもの償いとして、ローソクが全て燃え尽きるまで、そこに留まることにした。

こうして、少しずつ、少しずつ、忘却の彼方に消えていく。

だが、彼女がこの世に居た形跡はもう消えない。
すでに、『多剤大量処方問題』も『向精神薬の中毒死問題』に対するメッセージは、社会に認知されつつある。学会もそれに反応した。
そしていつの間にか、わたしはこの問題のエキスパートになった。サルサも教えられるほど上達した。彼女の存在は、私の一部になった。

もし、誰か一人でも救うことが出来たなら、多剤大量処方が減り中毒死が減るなら、それは彼女の生きた証である。


来年の命日には、忘れて行くことを詫びながら、「ありがとう」と報告したい。