出発は深川江戸資料館。ここは干鰯場跡の案内板がある元(区立)白河小学校、現在ケーインターナショナルスクール。干鰯(肥料)は当時の三大相場商品のひとつ(肥料、米、木材)だった。元禄9年に干鰯問屋商人によって小名木川沿岸の堀割際に開かれた。(元禄9年は1696年)背後に見えるのは公営住宅。校庭ではホッケーの練習をしていた。都営地下鉄大江戸線清澄白河駅に隣接という最高の立地条件。
中村女子中高一貫校至近の本誓寺。墓所奥にヘアリキッドポマードの柳屋開祖の中国は明の漢方医、呂一官の墓が。柳屋による塔婆には394回忌 とある。
清澄公園、案内板前で、久染さんと。関東大震災で被災するまで、J. Condor設計の洋館があった。被災後は東半分が庭園、西半分が製材所とへて今の公園となる。東京都名勝第一号。かつて公園側に洋館、庭園がわに日本館がたてられていた。
滝沢馬琴誕生の地(現在の平野ふれあいセンター旧老人センター)をとおりすぎ、清澄通りを北上。紀伊國屋文左衛門の墓所。2011の大震災以後、倒れたままの灯籠あり。内部にはたちいれない。そとからみるのみ。大口献金者(企業)は木材業者ばかり、東京木材企業に安廣(専務)さんがいらしたが、子孫とおもわれる。
霊巌寺には江戸六地蔵の大五番。そして、松平定信の墓。関東大震災直後の昭和3年1928年(大恐慌の前年か~)、国の史跡指定をうけ、この界隈を白河町となづけた(以前は霊巌町)。天気に恵まれ、y町歩きびよりであった。