【今回の記事】
教育次第で子どもは騒がなくなる!? 静か過ぎる保育園が話題に

【記事の概要】
   このところ、保育園に関する嫌なニュースをよく見る。誰しも子ども時代はあったというのに、近隣の住民からの「子どもの騒ぐ声がうるさい!」という。
   9月23日放送の「ユアタイム」(フジテレビ)で、興味深い特集が放送されていた。「教育で作る静かな保育園」という特集で、紹介される保育園では大騒ぎする子どもが見当たらず、みんな一様に、とにかくお行儀が良いのだ。
   同園には160人程度の園児が通っている。ここでは開園以来、騒音などの苦情が寄せられたことはないという。それも納得できるほど、とにかく子どもたちが大人しい。その大人しさの根幹には、子どもたちの主体性の育成にあると、園長の若盛正城氏は言う。自分で考えて、自分でやっていく、イコール主体性。その主体性が、たくさん持てる時間と場所と、それを見守る先生がいれば、きちんと身についていけると思いますね
   たとえばお遊戯の時間に何をして遊びたいかについては、一人ずつにリスニングをし、彼らが望む時間を提供する。それぞれが自分のやりたい遊びをできるようにすることで、落ち着いて遊びに集中できるというわけだ。また、昼食はビュッフェスタイルとなっているのも特徴的だ。子どもたちは、自分の食べたいものを、食べたい分だけ調節して食事ができる。知らず知らずに「何が食べたいか」という主体性を体得するというわけだ。
もちろん、「静か」という概念自体もしっかり教育されている。インタビューに応じた子どもたちは「大きい声を出したら迷惑」や「(食事中は)しゃべらない方が素敵なの」と話している。
このような保育園が話題になる時代が良いか悪いか、僕にははっきりとした答えは出せない。世の中がこのような保育園ばかりになってしまうと、なんとも気味が悪いようにも思えないこともない。主体性を培うという理念は良いものだと思うけど、子どものときからこんな調子で静かだと、成人したら自己主張が下手になってやしないかと、余計な心配をしてしまうのだ。いくら主体性が備わっていても、社会というのはそれだけでは生きていけないし。そもそもこの保育園が取り上げられた背景には、保育園の騒音問題が根底にあっただろうし、大人たちの「こういう保育園があってほしい」という欲求にマッチしている。言わば大人にとって都合の良い保育園に思えるのだ。

ろうか? やたらと騒がない、うるさくしたら迷惑がかかるなんて教育、保育園側がやる前に、普通は親が教えるもののように思える

【感想】
   そもそも騒音というものは不快なものである。それが子どもの声の場合、その不快さの大半は、子どもらしく楽しく遊ぶ元気な声ではなく、友達とのトラブルの声や、先生の言う事を聞かないで騒ぐ声である。今回の保育園「こどものもり」で行った取り組みは、楽しく元気に遊ぶ子どもの声はそのままに、トラブルによる不快な騒音を無くそうというものである。

   まずは、子ども同士のトラブルによる騒音について。
   残念ながら、前出の園長先生の話からは、なぜ子どもの主体性が静かな園づくりに繋がるかが今ひとつ分かりにくい。そこで、大変失礼ではあるが、私なりの補足をさせて頂こうと思う。
   例えば、これまでの保育士による指導の多くは、「今日はみんなでジャングルジムで遊びましょう」という指示によって、子どもたちに同じ遊びをさせる事も多かった。しかし、子どもの中には「本当はブランコをしたいんだけど、先生がジャングルジムで遊びなさいと言うから我慢するしかない」と思い、しぶしぶ遊んでいる子どももいるはずである。特にまだ自己コントロール能力が育っていない幼児がしぶしぶ我慢して行動している状況の中に既に「トラブルの種」が存在している。この「種」のために、例えば、子ども同士の体が間違って当たったというような、普段ならてきとうにやり過ごせる事も、「別の遊びをしたい」と不満を抱いている子ども同士だと互いに「イラッ」と感じ、いらぬ揉め事に発展する事もある。しかし、自分で決めた好きな活動であれば、トラブルの種となる「しぶしぶ我慢」は生まれることなく、満足して落ち着いた気持ちで遊ぶことができるし、違う遊びをしたい友達は、別の場所で楽しく遊んでいる。これではトラブルの起きようがない。ここに、子ども一人一人が自分の意思で遊びを決めている良さがある。
   そもそも、いくつもある選択肢の中から自分がやりたい事を選べるという「選択制」自体が、子どもの満足感を満たしている。大人でも、幾つかある中から自分で選べるという状況は、何かお得感が感じられるものである。
   ただ、この園では、どの遊びをするかを一人の保育士さんが子ども達に聞いていたが、これだと、先に聞いてもらった子どもの方が、後に聞かれた子どもよりも早くその遊びができるため、「早い者勝ち」という子どもにとって不合理な状況が生まれる。また、一つの遊具に沢山の子どもが集中する場合も考えられる。それらの状況に対しても、「自分で決めた」という「主体性」が自らの行動を抑制し静かに遊ぶことができるだろうか。そこにはどうしても、「主体性」だけではなく、「譲り合って使う」という「社会性」が必要になると思う。

   食事の場合はどうだろう。何をどの位食べるかを自分で考えて決める事が、本当に園の静かさに繋がるだろうか。インタビューを受けた子どもは、「大きい声を出したら迷惑」や「(食事中は)しゃべらない方が素敵なの」と答え、静かに食べようと意識している事は分かる。しかし、この意識に影響を与えているのは、自分で選んで決めた「主体性」ではなく、やはり、食事中のルールやマナーに関わる「社会性」の指導であると思う。
   しかし、そもそも食事までおしゃべりをせずに食べさせる必要があるだろうか。要は、誰かの迷惑にならずに行動できれば良いのだから、子供達が特段に大きい声を出さなければ、普通に食事をさせても構わないはずである。聞けば、食事中はオルゴールの音楽を流して、それを聞きながら食べるよう指導しているそうであるが、あの無機質なオルゴールの音楽を聴くことにそれほど意味があるとは思えない。もしも、そのオルゴールの音楽を聴くことを大義名分にして、「大人しく静かであること」それ自体を子どもに求めているとしたら、それは、大人の指導観の誤りか、もしくは記事にもある通り、大人によって作られた「(近隣に迷惑のかからない)大人にとって都合の良い保育園」と言われても仕方がない。ちなみに、食事というものは、他者と楽しくおしゃべりしながら食べると更に美味しさが増すものであり、事実、小学校ではその事を家庭科の中で指導している。
(次回、「子どもと保育士とのトラブルによる騒音について」に続く。)