http://sp.kahoku.co.jp/tohokunews/201507/20150712_33028.html(「<矢巾中2自殺>もうイヤだ 悩み綴り3カ月」)

   岩手県矢巾中の2年生男子生徒が亡くなってから1年が経つ。
   この生徒は、長期にわたって担任にSOSのサインを出していた。それにも関わらず担任はこの子の命を救えなかった。教え子を自らの指導をミスによって死なせてしまった担任の胸中はいかばかりか、想像を絶する。
   しかし、上記の記事の中のノートの写真を見ると違和感を覚える。それは、生徒の記述内容と担任の記述内容とがあまりにもかけ離れているからだ。生徒の記述は“死”を匂わせる切実なものであるが、担任の記述は「明日からの研修楽しみましょう」という実にポジティブなものになっている。
   このアンバランスはなぜ発生したのか?可能性の1つとして、担任が生徒の記述内容を読まずに丸をつけ、型通りの返事を書いたのではないかということが考えられる。1つの学級には30人から35人程度の生徒が在籍しており、毎日その生徒たちのノートを全員分読み、生徒たちが帰るまでに全員に返事を書くと言う事は、大変忙しい作業である。給食時間も、食事を3分程度で済ませ、残った時間でノートを見るのである。特何らかの突発的な出来事が生じたときなどは、急ぐあまりに、生徒が書いた文章を読まずに丸を書き、型通りの返事を書いてしまう事は無いとは言えない。だからこそ、“担任の仕事量の軽減化”は政治家の必須の事業なのである。
   しかし、少なくとも、以前からいじめについて相談を受けていた生徒に関しては、文章きちんと目を通してそれに応じた返事を書くべきであった。なぜそうしなかったのか。そこにはある油断が隠れていたのではないか。それは、「自殺などと言う事件はこの学校で起こるはずがない」という油断である。この油断は、他の教員も持っていないとは言い切れない。また、この事は、家庭でも同様である。「まさか我が子が自殺をするはずがない」そういう思い込みは危険である。
   しかし命はこの世に1つしかない。最悪の事態が起きてからでは遅いのである。