護憲ファシズムを跳ね返せ! | 偕楽園血圧日記

護憲ファシズムを跳ね返せ!

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 96条改正「理解は不十分」=安倍首相が認識

 安倍晋三首相は5日、憲法改正の発議要件を緩和するための96条見直しについて「まだ十分に国民的世論が深まっているとは言えないし、理解が十分とも言えない。やはり憲法改正だから、十分な議論、熟議が必要だろうと思う」と述べた。東京ドームでの国民栄誉賞表彰式後、記者団の質問に答えた。
 時事通信 5月5日(日)16時36分

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 この連休中、相変わらずというか、以前にも書いたように共産党の宣伝カーが水戸市内を走り回り、「憲法改悪反対!」を連呼していた。
 彼らの論調は決まって「憲法96条を変えると戦争になるぞ!」というトンデモ脅しなのでまるでお話にならないが、そういう連中の仲間がマスコミに多数巣食っているおかげで、

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 安倍首相「背番号96で改憲アピールか」と主要紙 過去の始球式でも「政治姿勢」皮肉っていた

 安倍晋三首相が披露した「背番号96」の巨人軍のユニホーム姿をめぐり、自身が意欲をみせる「憲法96条」改正に引っ掛けたものではないか、と議論が過熱している。
 安倍首相は2013年5月5日、東京ドームで長嶋茂雄氏と松井秀喜氏に国民栄誉賞を授与、引き続き行われた両氏による巨人対広島戦の始球式で審判役を務めた。このとき着ていたのが、問題となっている背番号96のユニホームだ。

■徳光アナ「憲法改正に関係あるのかな」とつぶやく
 過去の首相による始球式では、背番号はその年にちなんだ「2001」(森喜朗元首相)、コーチ役の桑田真澄さんから借りた「18」(鳩山由紀夫元首相)などの前例がある。それに比べると「96」という数字は一見中途半端にも見えるが、安倍首相本人によれば「第96代総理大臣」から取ったのだという。しかし日本テレビでの生中継中にゲストの徳光和夫アナが、
「96? 憲法改正に関係あるのかなと思った」
 とつぶやいたように、首相が夏の参院選の争点にすることを公言している憲法96条改正問題が浮かんだ人もいた。翌5月6日の新聞各紙朝刊はそろって、
「背番号の意味は」(朝日)
「96代目にちなんだ?96条改正アピール?」(毎日)
「改憲を意識?」(日経)
「首相意味深 背番号『96』」(産経)
 と96条に絡めて報じた。特にスポーツニッポンでは、「背番96 大はしゃぎ改憲デモ 安倍球審」と題してその「政治的アピール」を批判。公明党幹部からの「背番号9(9条)でなくて良かったが……」とのぼやきも掲載した。
 韓国メディアも、敏感にこの話題を取り上げた。5月6日付の中央日報電子版(日本語)が「野球場ショー」と式典の政治性を指摘、朝鮮日報電子版(日本語)も「憲法第96条の改正に向けた意志を示そうとしたとの見方が出ている」と紹介する。
 実は安倍首相には過去にも始球式で、マスコミからの「攻撃」を浴びた経験がある。2006年の第1次政権時代、日米野球で自ら投手を務めた際に投球が大きく左に逸れたことを揶揄され、「『右寄り』注意したら…あら左」(朝日)「大きく"左"にそれました」(毎日)などと政治姿勢を皮肉られたのだ。なおこのとき安倍首相は、ウインドブレーカーを着てマウンドに上がったため背番号は「なし」だった。

 苦労を背負っているから「96」?
 今回の騒ぎに、インターネット上では「誰がどう見たって第96代っていう意味」「もう96条を指してるってことにして安倍を叩きたくて仕方ないんだな」などと、マスコミへの批判の声も出ている。特に安倍首相のフェイスブックページには、
「ただただ感動しました。素直に喜べはいいのに、背番号96を邪推する人がいることが残念です」
「背番号はそういう意味だと思いますが、改めて決意が伝わり良かったと思います!」
「背番号96と96条を絡めて、批判してる人達は、世の中を楽しむ事ができない寂しい人達ですねぇ」
 など、「熱い」支持のコメントが多数寄せられている。
 なお、別の解釈としてネット上では、安倍首相が「いろいろな意味で苦労(96)を背負っている」というアピールだ、という説もあり、こちらも一定の支持を集めている。
 J-CASTニュース 5月6日(月)18時38分

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 こんなことまで「安倍叩き」の材料にされるのだから、なるほど安倍氏のいうように、「まだ十分に国民的世論が深まっているとは言えないし、理解が十分とも言え」なくて当然だろう。

 まったく。J-CASTの記事にもあるように、スポーツ新聞のようなところがはしゃぐのならばただなま暖かい目で見ることもできるが、一般紙の、それも普段「オピニオンリーダー」を気取っているようなところまでが「左にならえ」をやっているのだからあきれ果てる。(それに同調する産経も産経である)
 これらは以前にも始球式の球筋を取り上げて政治批判をやっているつもりの記事を書いていたというから何ともレベルが低いのだが、おかげで「背番号はそういう意味だと思いますが、改めて決意が伝わり良かったと思います!」という賛同の声を生んでしまうのだから、まったく「馬鹿」。

 憲法96条は、以前にも書いたように「憲法の条文のための条文」であり、それが変わることによって直接「国と社会のルール」に大きな変化があるものではない。が、それを持ち出すことは、国民に「ああ、憲法ってそういうものなんだ」と考えさせるいいきっかけになる案件である。

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 浦部法穂さん「議員に憲法いじる資格ない」 世論調査

 5月3日は憲法記念日。朝日新聞社が憲法をテーマに行った全国郵送世論調査の回答を見て、作家の雨宮処凛さんは不思議がった。「もしこれが1人の人間の思考だとしたら、とても心配。ものすごく矛盾していて……」。映画監督・作家の森達也さんは、9条を変えないという人が多かったのは「意外だった」と驚いた。神戸大名誉教授の浦部法穂さんは、今の国会議員は「憲法をいじる資格はない」と手厳しい。好調アベノミクスと同時進行する改憲の動き。3人の識者が語る憲法と日本社会とは――。
■神戸大名誉教授の浦部法穂(のりほ)さん 憲法9条を変えない方がよいという人も、96条の改憲手続きを緩める自民党案に反対という人も5割を超えた。改憲賛成が5割を超えたといっても理由は非常に散らばっていて、最も多くの人が理由に挙げた「国防の規定が不十分」でも全体の3割にとどまっている。国会の論調だけをみると改憲ムードが非常に強いが、国民は割合冷静に見ているのではないか。
 そもそも憲法改正権は国民にあるのだから、改憲は国民の側から「国会で案を作れ」という声が起きてから初めて国会が議論するものだ。ところが、憲法で行動を制約され、命じられる側の国会、まして統治権の中枢の内閣が今の憲法では都合が悪いからといって改憲を主導するのは本末転倒でおかしい。
 朝日新聞2013年5月2日(木)00:39

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「憲法」といえば偉ぶった憲法学者が出てきてごたごたいうが、法とは政治のためのツールでしかないのだから、その議論は「なんたら学」というような解釈講義が出てくる場所ではない。
 ネットでもお定まりの「憲法は権力者を縛るもの! こんなことは法学部の1年生で習うような基本!」と繰り言を言う人間が山ほどいるが、なるほど1年生の時から「権力者と民衆」という対立論を刷り込むことで将来立派な「左巻き弁護士」になるよう曲げていく「プログラム」ができているらしい、今の「法学部」というやつは。

 サッカーにおいて、ピッチの大きさ規定や「手を使ってはいけない」というルールは、見ようによっては選手を縛るものという表現もできるが、普通に解釈すれば「それはサッカーゲームというものを成り立たせるための決まりごと」というものになる。(「手が使えないとはプレーが縛られる!」と考えるような人間は、そもそもサッカーなどする資格はないのだ)
 民主主義国家では政府は主権者たる国民によって選ばれた人間が運営するものなのだから、そのための基本ルールたる憲法も、このサッカーのルールと同じく「ポジティブな見方」をこそするべきもの。決して共産主義革命のルサンチマンに取りつかれた化石頭の「権力者論」などに騙されてはいけない

 社民党などは「憲法に公務員などは憲法を守れと書いてあるのだから総理大臣が改憲などいうなど許されることではない」と主張するが、改憲をいっているのは総理としての安倍ではなく、自民党総裁の安倍であり、党がその話をしているのだということが理解できないのだろう。
 それとも、そうやって行政に送りこまれる人間から「議員資格」を剥奪する話を持ち出すことで、将来的な「議院内閣制の廃止」「行政長官の直接選挙」を話の中に取り込み、「だから天皇を廃して共和制にしよう」とでもしたいのだろうか。もしそうならば、そんな政治的思惑で、憲法自体のことを考えるところから話をそらすなど不誠実にもほどがある。

 普段「権力が無理やり人をなんたら」とか「平等」という単語を連発するのとは裏腹に、実は左巻きは大変な権威主義で、「そのカテゴリーで有名な人間」の言葉を出せばそれに人々がひれ伏して当然という態度を平気でとる。少し前に野党議員が国会で憲法学者の名前を出し、安倍総理が「知らない」といっただけで鬼の首を取ったかのように騒いだのも、そういうメンタリティがあるから。
 だが、考えるまでもなく、これは「人を一つの意見で押さえつける」行為である。
 しかも物理学のような普遍的な法則がある話(物体に力を加えると動くというのは、誰がやっても同じ)ではなく、あくまで「自分の考えはこう」が通る百家争鳴の社会学分野で「名前」にひれ伏させようなどまるで民主的な話ではない。
 こういう人間たちが、「安倍は戦争をしようとしている」というレッテルを張って騒ぎ、マスコミまでがそれをそのまま、そればかりを、繰り返し流している状況では、およそ憲法改正の意味というものが人々の頭の中で存在感をもち、そこに「思考の手間」をかけてみようという気持ちが国民の間で盛り上がることもないだろう。
 それでは「憲法で思考停止しろ」としている勢力の思うつぼである。

 先日「主権回復の日式典」が行われたが、主権を持つとはすなわち、自分の国を自分たちで形作っていけるということ。その基本となる憲法を「変えよう」「変えなくていい」を議論し、決めていくことができるということである。
 これを「変えてはいけない」「考えるのもいけない」とするのは、国民主権を否定するファシズムでしかない。
 ましてや「嘘」やレッテル貼りでそれをするのは!


 ところで、共産党の演説カー、参院選の候補者名を上げて投票を依頼したり、「比例区は共産党と書いてください」というのは、もう完全に選挙の事前運動であり、違反行為になるのではないのか?
 選管は何をやっているのだろう?


 本日の感謝。

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 日本初、畳供養=京都市〔地域〕

 約1000年にわたって日本人の生活を支える畳に感謝する「畳供養」が、京都市上京区の浄土宗大本山「清浄華院(しょうじょうけいん)」で行われた。お経が唱えられる中、全国から届けられた1591通の「供養したい畳の思い出」や、畳職人らの願いが込められた173枚の「畳の護摩ゴザ」が、用意された130畳分の畳表とともに燃やされた。
 主催した全国畳産業振興会などによると、畳供養は全国で初めての試み。最近の畳の年間需要量は、1994年の4600万畳をピークに減少を続け、2013年には1490万畳に落ち込んだ。夏は涼しく、冬は温かいという畳の良さと、長く続く畳文化を次世代に継承する目的で、畳供養を考えたという。
 清浄華院の執事で法務部長の畦昌彦さんは「当たり前のように使っている畳に感謝する気持ちが大切で、毎年開催したい。畳供養が日本古来の伝統文化を見直すきっかけになってほしい」と話した。
 清浄華院は平安時代、清和天皇の勅願で慈覚大師円仁が創建し、863年に落成。法然上人25霊場の一つとしても知られている。大殿には207畳の畳が敷き詰められており、畦さんは「畳寺としてより一層、親しみを持ってもらえれば」としている。
 時事通信 5月7日(火)10時8分

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 まあ昔の畳は畳表が痛む前に畳床がへたってしまい、分解してそれぞれリサイクルしていたから、このような形での供養祭というものがなかったのも当然だろう。

 スタイロフォームを芯に使うなど「へたらない畳床」ができたおかげで畳表が擦り切れるまで使われるようになり、それが年間需要量の減少にも繋がっているのだから、この畳供養は、業界にとっては、本当はやらない方がいいようなものなんだろうなぁ。