清流阿多古川 阿多古和紙 西来院いぼ観音まつり 観音山 しっぺい 信康さん | 縄文家族|天竜楽市

縄文家族|天竜楽市

天竜川流域に岩宿、縄文の昔から連綿と続く山暮らし。

大祖先から受け継いだ五万年持続する森と共生するサスティナブルライフを未来の子供たちへ伝えましょう‼️

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奇蹟の清流阿多古川

昭和三十一年に二俣町へ合併するまで、阿多古川流域には下阿多古村、上阿多古村、熊村の三村があり、合わせて一万人ほどが暮らしていた。

三村合わせた阿多古川流域の人口推移を見ると
明治二十七年(1894) 7,509
大正九年(1920) 9,021
昭和二十年(1945) 11,525
昭和三十年(1955) 9,996
昭和六十年(1985) 6,525
平成二十六年(2014) 4,791

となっており、特に戦時中、疎開者を受け入れ人口が大きく伸びたが、昭和中期以降は過疎化が進み明治期の人口を下回る状況が続いている。

然し、天竜区域の昭和三十年と平成二十六年の人口を比較すると・・・

二俣地区 11,442→6,770
光明地区 5,873→7,061
龍川地区 6,533→1,317
龍山地区 12,345→752
春野地区 14,683→4,930
佐久間地区 26,671→4,130
水窪地区 10,947→2,382

阿多古・熊地区 9,996→4,791

天竜区域 98,490→32,133


二俣光明を除く山間地域の中で阿多古川流域は比較的人口減が緩やかではある。

明治期に王子製紙が進出し、林業と共に商工業、秋葉観光で栄えた春野。
久根鉱山、峰之沢鉱山を抱え、戦後はダム建設のバブルに沸いた佐久間、龍山。
明治中期に人口七千を超え、諏訪と秋葉、信州と遠州を結ぶ街道の商業地として栄えた水窪。

これらの地区の産業衰退が顕著であったのに対し、比較的浜松に近く通勤も可能であり、特に夏場の阿多古川観光需要も見込めるなど、阿多古川流域は天竜区において今後再びの発展に期待が持てる地域の一つである。


上述のように大正時代から一万人近くが流域に暮らしていたにもかかわらず、「平成の名水百選」に選定されるほど澄み切った清らかな流れを湛えてきたということは奇蹟に近い。

鈴の代わりにやかんが吊された「大ナマズ神社」では、阿多古川の主である大ナマズがゴミや空き缶を食べて苦しまないようにと清流阿多古川を訪れる全ての人々に訴えかけている。

そして、阿多古に暮らす人々は、はるか縄文の昔から、この清らかな水の流れを守ってきたのである。


熊のヒラシロ遺跡は縄文時代中期末の約4500年前の住居跡が発見され竪穴式住居が復元されている。


ヒラシロ遺跡は標高四百メートルを越える山上集落であり、縄文時代から山の斜面を利用した焼畑農法が営まれていたと思われる。
こうした山の斜面での農業は、風の通りや寒暖差、水はけの良さなど平野の農地にはない様々な利点があり、阿多古川流域には数多くの天空集落が形成され、現在は国産最高級茶葉『天竜茶』の産地となっている。


本州最古の人骨が発見された根堅遺跡からも遠くない阿多古川流域には上野や金原など縄文遺跡が点在し、古代から連綿と人々が暮らしてきた。


阿多古は倭名類聚抄の遠江國麁玉郡碧田郷に比定(碧田郷は遠州弁では「ああたごう」と読む!?)されており、比較的早く稲作に移行していたようだ。

天竜区域では、縄文時代そのままの豊かな山の暮らしがその後も継続し、稲作は余り普及していないが、阿多古川流域においては水田も多く見られる。


農事祈願の神事である懐山おくない国の重要無形民俗文化財に指定されている。

また、この「おくない」は、奈良東大寺修二会(しゅにえ)の行が近畿地方に「おこない」として広く伝わり、南北朝時代に観音山周辺に伝わったようである。

南朝勢力が遠州四霊山の一つである観音山を拠点としており、山頂で烽火を上げて三岳山、井伊谷の南朝勢力と連絡を取り合っていたという。
南朝が衰えた後も、大石弾正という武将の子孫が懐山に止まり「おくない」を伝えてきたという。


遠州四霊山の一つ光明山から見た観音山(左奥)


観音山は「しっぺい太郎」が死んだ場所という伝説が残っている。
しっぺい太郎終焉の地という伝説は各地にあるが、観音山には「しっぺい太郎」の御神体があり、かつて磐田見付裸祭りに毎年見付からこの御神体を借り受けに来ていたという。
然し、いつからか見付から観音山へ御神体を返してこなくなったという。


と、いうわけで阿多古のご当地キャラでもある「しっぺい」は「信康さん」と共に二月十一日に西藤平の西来院で行われた『いぼ観音まつり』にも参加。


やはり天竜区にも所縁の深い「家康くん」も参加。


天竜区の新しいご当地キャラ「信康さん」は、この日がワールドプレミアという触れ込み。

然し、何となく距離感のある家康、信康父子である・・・


阿多古和紙
阿多古には、昔から伝統の紙漉き技術が伝わっている。

南朝の長慶天皇にまつわる伝説は全国各地にあるが、紙漉きの技術を南朝方が持込んだ、という逸話も各地にある。


天竜区にも船明に長慶天皇の皇女である綾子内親王の稜と伝わる上臈塚がある。

観音山に根付いた南朝方が、やはり紙漉きの技術を都から伝えたのだろうか。


阿多古和紙千年の耐久性があると云い、大正時代の大福帳が殆ど黄ばむことなく残っており、江戸時代に阿多古和紙で作られたという凧も現存している。


然し、現在では阿多古和紙の紙漉き技術を継承しているのは齢八十を超えた大城忠治氏ただ一人である。


そこで、阿多古和紙の紙漉き技術を若い世代へ継承する取組が行われている。


天竜区内で和紙の原料となるミツマタを採取。


ドラム缶で煮立て、繊維たっぷりの樹皮を剥がす。


そして観音山北面の天空の地で・・・


伝統的な製法で紙漉きが行われる。



近年は企業も和紙に注目しており、商品開発の企画なども持込まれるようだ。


阿多古は典型的な山里の風景が広がる。
縄文の昔から、自然と共存する人々がこの地に暮らしてきたからこそ・・・



ここにしかない豊かな自然と人々の魅力に溢れている。