19日、元WBC世界バンタム級王者辰吉丈一郎選手と会見した、大阪帝拳ジム吉井 寛 会長であったが、引退問題は平行線。現役続行を主張する辰吉選手とは持久戦の様相を呈して来た模様。
辰吉引退拒否!吉井会長と会談も平行線(スポーツニッポン)
元日本フライ級王者ピューマ渡久地選手。”平成の三羽鳥”と謳われ、野性味あふれるファイトと、その強打は多くのファンの心を掴んだ。天才肌の人気ボクサー。現役最後は協栄ジム所属。そんな渡久地選手を襲った不運。
1998年10月12日、WBA世界Sフライ級王者飯田覚士(緑)選手への挑戦を発表した同級7位の渡久地選手。大竹マネジャーは、念のため健康診断を受けてくるよう指示した。協栄ジムでは大きな試合の前に、皆受けるものである。
脳梗塞。協栄ジムに近い新宿区の春山外科病院にはコミッション・ドクターも勤め、36歳にしてプロボクサーライセンスを手に入れた脳外科医・高橋伸一郎氏がいる。協栄グループの誰もが信頼する人物である。良く、スパーやりました。(~~)
ショッキングな診断を受け、協栄ジムはすぐに試合のキャンセルを申し入れる。代役挑戦者へスス・ロハス(ベネズエラ)が挑戦することになるのだが、チャンピオン防衛ムードが濃かったこの試合で、飯田選手は試合中右肩脱臼の不運に見舞われる。王座喪失。
「渡久地、やらせてあげたかったなァ。一生懸命やってて、かわいそうだったよ。渡久地がやってたらなァ」
世界挑戦一転、ジムから引退を突きつけられた渡久地選手はあきらめきれない。いくつかの病院を廻り、診察を受ける日々が続いた。脳梗塞というのにはオーバーという診断を下す病院もあった。食生活をしっかりすれば治る。渡久地選手は再起を目指した。
私の観ていた練習生も脳梗塞を患った事があった。プロテスト目前であったが、スパーを見てるとちょっと足がおかしい。本人は大丈夫だと言い張ったが、危険を感じた。すぐに高橋先生に診断を仰ぐと、軽い脳梗塞との事。
「俺の身内だったら入院させて、しっかり治させるよ」
すぐさま入院させた。私の住むマンションの隣の部屋に越して来たのが縁で、再度ボクシングへチャレンジしたのだが、残念な結果になった。乳飲み子を背おった奥さんを前に、「もうやらせられないよ」と告げた。
元WBA世界Lフライ級王者渡嘉敷勝男(協栄)選手は、WBC王者 張 正九(韓国)を後一歩まで追い込むも、不可解なストップ負け。これではあきらめきれない。まだ若い渡嘉敷選手は、再起に燃えていた。
健康診断。ほんの少し脳波に異常がある。と言っても、通常生活には何の支障もない範囲。普通で言えば健康である。しかし、高橋ドクターは、「ボクシングが危険なのはわかっているだろ。俺は、奥さんにお前を健康なまま返してあげなければいけない」
「高橋先生に言われたら、俺は従うしかないよ」
強気の渡嘉敷選手は荒れた。荒れる時もトコトン半端じゃない。何しろ、東京に出てボクシングを始めるに当たり、タバコをやめる決意をした不良少年は、除夜の鐘を聞きながら、鼻の穴、耳の穴と、口に入るだけのタバコを入れ、最後としたくらいだ。(~~)
雌伏1年。渡久地選手は執念のカムバック戦リングを迎える。JBCの引退勧告を、”試合後の検査”との条件付で退けての再起戦。兄貴分の五代ジム・田中会長と懸命の調整が続く。世界挑戦が流れた時、左足かかとにも大きなケガがあった渡久地選手。スパーでは足を引きずっているように見えた。
大竹マネジャーは再起戦のマッチメークを任された。1年4ヶ月ぶりになるバンタム級渡久地選手の相手に選ばれたのは、鹿島其成(沖)選手。6勝(1KO)5敗5分。頑張り型のファイターだが、パンチはない。
試合は意外な展開。初回から渡久地選手はマットに落ちた。迫力がない。2回も試合にならない。何とかこの回は持ちこたえたが、3回開始早々つかまり21秒浅尾レフェリーは試合をストップ。鹿島戦選手が嬉しい3年ぶりの白星を飾った。
無惨な敗北を喫したにもかかわらず、すぐさま再起表明の渡久地選手は、「休んでなんかいられない」しかし、金平桂一郎会長は、「引退を勧める。渡久地が納得するまで話をする」とコメント。
その夜、沖ジムのトレーナー氏と酒席で隣り合わせた。
「良かったですねェ」
「嬉しいですねェ。頑張る子ですから、良かった」
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仲里 繁 (沖縄W)選手に痛烈なKO負けを喫し、1年3ヶ月のブランクを作った事もある鹿島選手。1分をはさんで4連敗の記録もあるが、それらを克服した努力の選手だ。
「もし、名をさしめるような事があるなら、知らない所より、知ってる所の選手の方がいいだろ」
無念の表情で大竹マネジャーがつぶやく。沖ジムは、元フェザー級ランカーとして活躍した協栄ジムOB宮下 功 氏が会長を務める。中学生の大竹少年に、初めてボクシングの手ほどきをしたのが、宮下トレーナーだった。
渡久地選手は、二度とリングに立つことはなかった。現在は、ピューマ渡久地ボクシングジム
を主宰し、元気に後進の指導にあたっている。そして、鹿島選手も良き勲章を想い出に、リングを去っていった。