9日、東日本プロボクシング協会は、亀田兄弟からの協会預かり申請を全会一致で却下。亀田一家は、独立、プライベートジム設立の方向に動く模様。
8月に亀田ジム設立へ 東日本ボクシング協会、身分預かり拒否(中日スポーツ)
ボクシング:亀田兄弟の申請却下…父は新ジム設立へ(毎日新聞)
無期限ライセンス停止中の父・史郎氏は、表立つ事は出来ず、第3者を立てねばならない。ライセンス保持累積10年以上、1千万円の協会加盟金。元世界王者なら300万円、元OPBF王者400万円、元日本王者500万円。亀田ジム会長、誰なんでしょうかねェ。(~~)
「お前やれよ」(~~)
「フガッ、・・・」(~~)
大竹マネジャーの冗談は、いつもきつい。
自宅兼道場をそのままジムに宛がい、兄弟以外の練習生、選手は募集しないプライベートジム。史郎氏のライセンス無期限停止は計算外としても、父経営の会社が持つ兄弟のマネージメント権を現行制度の中で活かすには、独立がベスト。後はプロモーター。
グローバル協栄ジム・マック金平代表の興行ドタキャン事件の余波もあり、今後のプロモーター・ライセンス発給は、条件が厳しくなると思われる。ここも、どこかと手を組む事になるのでしょう。
プライベートジム。日本では聞きなれないが、海外では専用ジム(練習場)を持つ選手はたくさんいる。
日本人初の世界王者・白井義男選手は、自宅の庭に立てられたプライベートジムで練習をした。ジムには所属しないマネジャー・スタイル。カーン博士とのコンビは余りにも有名だ。
「これからは、ボクシングの時代だ」
郡司信夫氏のアイディアから、昭和21年、日本拳闘株式会社が資本金18万円で設立される。そして、銀座に日拳ホールがオープン。昼間は練習場で夜は試合場。観衆2000人の集客力があった。
欧米スタイルのマネジャー制度の確立を目指していたこのホールでは、選手とマネジャーのマンツーマン・スタイルが主流であった。
やがて、白井義男選手も日拳ホールで練習を始める。カーン博士と出会うのは昭和23年7月15日。マネジャーがいなかった白井選手と、正式なマネジャー契約を結んだカーン博士。保証人は、アメリカ大使館。
日本拳闘協会と日本拳闘株式会社は反目しあった。クラブ制度vsマネジャー制度である。昭和23年、日本拳闘株式会社は協会を脱退。くしくも白井選手がカーン博士と出会う1日前の事である。そして、以下の声明を出す。
「マネジャー制度と、クラブ制度の調整を図り、共同練習場としてマネジャーに開放し、練習生の自由を縛る一切の行為を排除する」
昭和22年秋の白井選手は、昼間は日拳ホールで練習し、夕方からは王子にある王子拳道会のボクシング師範の仕事に付いていた。会長は、白井選手の大ファンであった木下一雄氏(写真左)。協会の慣例では王子拳所属となる。
木下氏がマネジャーなのか、カーン博士がマネジャーなのか。世界王者ダド・マリノのマネジャー、サム・イチノセ氏も、「どちらがマネジャーなのか、サッパリわからなかった」と述回している。
世界王者となった昭和27年。一体どちらが正式なマネジャーなのか、はっきりさせねばならぬ時が来た。全日本ボクシング協会・本田 明 理事長(帝拳会長)と話し合った末、「カーンさんにお願いしたい」という、白井選手の一言が通った。
王子拳を離れフリーとなった白井選手に、クラブ制度を超越したライセンスが交付された。こうして、自宅のプライベートジムは作られたのである。
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木下氏は、白井選手のプロモーターとして稼いでいた。しかし、自身の散財がたたり、ボクシング界を終われるハメになる。だが、カーン博士は木下氏の窮状を救うべく、田辺コミッショナーに金銭を託している。
協会vs連盟。日本拳闘株式会社が続いていたならば、現在のプロボクシング界はどうなっていたろう。クラブ制度とマネジャー制度の併合。全日本パブリックジム田中敏朗会長が提唱するマネジャー制度は、故菊池弘泰初代事務局長から託されたという。 -続 くー
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