新選組紀行④ 永倉新八 新選組への想いが詰まった街 板橋(東京都 板橋) | 夢の続き・・・

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板橋駅東口を出ると広場のすぐ向こう側に、

近藤勇・土方歳三の墓、新選組士100人ほどの名前が彫られた慰霊碑がある。





そして同じ敷地内にもう一つ墓がある。



新選組 副長助勤 2番隊組長 永倉新八の墓だ。

(永倉新八の墓)





永倉は近藤勇の江戸での天然理心流道場 試衛館の食客だったらしい。

やがて、この試衛館の仲間たちと、幕府の募集に応じて京都に上り、

不逞浪士の取り締まり(後の新選組)にあたる。


永倉新八は、新選組に参加した試衛館メンバー(近藤、土方、沖田、井上、山南、原田、藤堂、永倉)の中で、ただ一人戊辰戦争後も生き残った人物だ(※一説には斎藤一も試衛館に出入りしているが、ここでは外しておく)。



明治の世。

新政府にとって敵だった新選組は、悪役とされ、
歴史の舞台から忘れさられる存在だった。

そんな新選組が、勝った側の一方的な評価ではなく、

新選組側の立場としての見方が後世に伝わった背景には、
永倉が書き残した記録が大きい。

永倉は新選組においては幹部として中心的位置にあった。

剣術の腕は、猛者ぞろいの新選組にあってトップクラス。

京の治安、そして幕府や帝を守るため、不逞浪士の取り締まりにあたる。

少人数で乗り込んだ池田屋でも負傷しながらも最後まで激戦を繰り広げている。



そんな永倉も、薩長のクーデターで幕府の崩壊とともに激動の渦に巻き込まれていく。

世の中の評価が逆転し、一転して賊軍となる。



鳥羽伏見で敗れ、新選組は江戸にもどる。

その後甲州勝沼で新政府軍と戦うも敗戦。

その後永倉は路線対立から近藤と袂を分かち、

北関東で独自の戦いを行うもそこで彼は戦をやめ、その後松前にわたる。


こうして新しい明治の世で、永倉は激動の波にもまれながらも生きながらえることが出来たが、自らに大事な使命を課していた。

それは近藤をはじめとして、かつて共に戦った仲間たちの供養と

名誉回復である。

袂を分かちながらもその絆は切れてはいなかった。


明治9年 永倉は近藤が処刑された板橋に、近藤の墓を建てる。

その墓石には函館で戦死した土方歳三の名も刻んでいる。


(近藤、土方の墓)





その側面には自分が記憶する限りの100名を超える新選組隊士の名前も刻まれている。



そして永倉が取り組んだもう一つの使命 仲間の名誉回復。

彼が明治42年に小樽新聞記者らに語った新選組の記憶

『新選組顛末記』。



当時薩長で構成された新政府の世にあって新選組は、

「悪の人斬り集団」といった一方的評価だった。

永倉が語った記憶は、当時の人の新選組の評価を変え、現代の評価へとつながっていく。





永倉が大正の世まで生き残り、新選組の真実を世に出したこと、そして仲間の名誉を回復した功績はあまりにも大きい。


彼の功績により、一瞬の時代を駆け抜けたこの若き剣客集団に、

今なお多くの人が惹きつけられている。


その使命を果たすと、永倉は役割を終えたかのように

191515日 小樽にて永眠。享年77歳。

永倉は死んだら、自らが板橋に作った仲間たちの墓所に分骨してほしいと遺言したという。

その遺言通り分骨され、近藤、土方、そして新選組隊士100名の慰霊碑とともに眠っている。

ここ板橋は、時を隔てても尚 永倉の仲間に対する強い絆を感じることが出来る場所である。


新選組紀行① 新選組隊士が眠る街 会津

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新選組紀行② 土方歳三最期の地  函館 一本木関門http://ameblo.jp/ssh219/entry-11956748874.html


新選組紀行③ 天才剣士 沖田総司永眠の地 専称寺

http://ameblo.jp/ssh219/entry-11994380699.html