「知識と知恵の違いは何か?」ということは、一般にもよく話題に登りますが、今日・明日は、「知識」と「知恵」を取り上げます。
テキストには、先に「知恵」の項目の方が出てきますが(他のところでも大体、高い界層から段々に降りてくるような順番で編集されているので、それに揃えたということでしょう)、ここでの紹介は、先に「知識」にさせていただきます。
ここ数日の言葉は、研究者である私にとっては身にしみるものが続いていますが、今日の出だしもまた、そんな感じです。
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与えられた知識は活用しなければならず、日常生活で実際に応用しなければならない。
この言葉を読んだあなたに、次の三つのことをする義務が生まれる。それを私は重要な順に示す。
1 あなたの日常生活を、伝えられた真理――もしそれがあなたにとってまさに真理であるならば――に基づいたものにしなければならない。
それはおそらく、あなたにとって学習に伴う単なる興味深い魅力的な片手間仕事でしかないであろう。
またおそらく、それは得ることによってあなたを楽しませるものであろう。なぜなら、それが目新しいものであり、それが普通の教えと少し違うものだからである。
またおそらく、人類の他の人々よりも少し先にこれらの教えを得ることはあなたを喜ばせるであろう。
このような反応はすべて、パーソナリティーの反応であり、あまり重要ではない。
大半の人々の反応はおそらくこのようなものであろう。
もしあなたの反応に、私が今述べた以上に深いものがないならば、この教えはあなたのためのものではない。
なぜなら、それによってあなたの責任は非常に重くなるからである。
しかし、もしあなたがどのような些細な方法であれ、その真理を、あなたが理解したように、自分の生活に応用しようと試みるならば、それらはあなたのためのものである。
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「秘教を学ぶ者には責任が生じる」という話は、割とよく出てきます。知識を得たままにして、それを実践しないと、カルマ的な責任が生じる、ということです。私のように専門的に研究して溜め込んでいる人間には、結構、怖いです(苦笑)。
科学的な研究の延長線上で神智学~秘教に出会った当初は、「私は宗教家ではなく、宇宙の真理を探求する科学的研究者ですから、特に実践をするつもりはありません」と言ってきました。
今振り返って見ると、その当時は、まだ本当の意味で本腰を入れてはいた、といは言えない時期でした。
そういう意味で、本当に本腰を入れ始めたのは5年前、『秘教治療』が翻訳出版され、その直後から年間講座を始めて以降だと言えます。
気がついてみると、もう5年・・・やっただけの成果も感じられ、(主観的には、まったく休むことなく)ガムシャラに頑張ってきた時期でもありました。
何とかギリギリで仕事をこなす中で、時間を取られる秘教テキストの解読作業をいかに短縮するかが焦点になり、色々工夫する中で一番効率的なのは、書かれていることを実践し、「弟子道を歩むこと」だということに気づきました。
やはり、実践しないと分からない、それ以前に興味の持ち方がまったく違うため、読んだときの集中度が違ってくるのです。
以来、かなり、効率的にこなせるようになり、多数の講座にも対応できるようになってきています。
そんなわけで、ここの部分は、以前の私だとかなりビビったところです。最後の文章に「どのような些細な方法であれ」と書かれている部分が、救いでしたが。
あと2つ、残った義務の話を続けます。
こちらは、ちょこっと胸を張って、お伝えできるかな・・・
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2 この新しい教えを具体化する想念の骨組みを形成すること。
あなたは――もしあなたが望むならば――新時代の教えの想念形態を形成するのを手助けできる。
あなたはこれを次のような方法で行う。
何にもましてあなたの思考によって。
あなたが理解した真理を是が非でもあなた個人の生活で実際に応用することによって。
あなたの仲間へのあなたの犠牲と奉仕によって。
そして、あなたが持っている知識を絶えず広めることによって。
3 長い期間にわたって、教えを配布すること。
あなたはそのために何かをし、責任を背負ってきましたか。