原田國男さんは,長く刑事裁判を担当された裁判官として大変著名な方です。無罪判決を多く出されたことでも知られた方でして,刑事事実認定論や,刑事裁判の量刑論についての多くの著書も書かれています。同じ法律実務家として,私自身大変尊敬している方なのです。

 

 

 

その原田さんが,裁判官を退官された後弁護士となり,書かれた連載をまとめてつい最近出された著書が『裁判の非情と人情』(岩波新書,2017年)なのです。

 

 

 

同書では,原田さんが裁判官として扱われた事件のお話,裁判官として考えられたこと,さらには裁判官を退官後弁護士として考えていることが書かれています。いつも弁護士として裁判に臨んでいる私からすると,「裁判官は,このような視線で裁判を見ているのか。このような光を事件に当てようとしているのか。」という,とても新しい発見に満ち溢れた本となっています。

 

 

 

私が同書を拝読してとても印象に残った内容が2点あります。まず1点は,最高裁判事を務められた団藤重光さんがアメリカ連邦最高裁判所を訪れた際,9人の最高裁裁判官の椅子の大きさと形がそれぞれ違っていることに感銘を受けた,というお話です(同書172頁)。

 

 

 

最高裁裁判官は1人1人が異なる立場で事件や法に光を当てる存在です。異なる光が事件に当てられることで思わぬ側面が浮かび上がることがあります。また異なる光が法に当てられることで社会が求める正義が法を通じて発現することになります。

 

 

 

長く国際司法裁判所裁判官を務められた小田茂さんが国際法学者としてアメリカに留学されていた際,「日本の最高裁もアメリカの最高裁のように個別意見がもっと出るようにするべきだ」という論考を発表して話題になったことがありました(小田茂『海洋法と共に歩んだ60年―学者として裁判官として 』(東信堂,2009年) )。今の日本の最高裁は積極的に違憲判断を行い,合憲・違憲についての裁判官による個別意見が多く出されるようになってきています。それはまさに個々の法律家としての光が当てられていることを意味します。そのような変化を考えても,やはりアメリカの最高裁裁判官は座る椅子まで違っているというのは,法に対する法律家としての姿勢を表すエピソードのようで,とても感銘を受けました。

 

 

 

同書を拝見して印象的だった2つ目の内容は,最高裁の調査官が,司法研修所教官をされていた知人と交わされた会話です(同書111頁)。

 

 

 

ある司法研修所教官が最高裁で調査官をされている知人に「君の仕事は最高裁調査官解説として立派な本に残るから良いな」と言ったそうなのです。するとその調査官は,「君の仕事こそ,司法修習生の心の中に残るのだから良いではないか。」と言われたそうなのです。

 

 

 

仕事が本として残ることも,法律家としての栄誉な足跡でありますが,人々の心の中に残る足跡以上の法律家としての栄誉は,この世に存在していないように思います。このお話には,法律家としての初心を思い出させていただきました。

 

 

 

原田さんの同書は,まじめなお話だけでなく「裁判官をされていた方が退官後板前になり,話題になった。その元裁判官は『人を裁くよりも魚をさばくほうがいい』と言った。」という,ユーモアあふれるエピソードもちりばめられた,とても面白く,かつためになる本です。

 

 

 

ちなみに同書の127頁には,「法律に『愛』も『恋』もないのか,といえば,そうではないのです。○○法とストーカー規制法などには『愛』と『恋』が書かれています」というお話も登場します。さて,ストーカー規制法とともに「愛」と「恋」が記された法とは,一体どの法なのでしょうか?。ご感心をお持ちの方は,ぜひ原田さんの裁判官人生のエッセンスが込められた同書を手に取ってご覧いただければと思います。