最近発行された『一歩前に出る司法/泉徳治元最高裁判事に聞く』(日本評論社,2017年)は,2002年から2009年にかけて最高裁判事として活躍された泉徳治さんに,渡辺康行さんらの憲法学者の3名がインタビューを行った内容をまとめた本です。

 

 

 

泉さんは,最高裁判事としてだけでなく,最高裁調査官や最高裁事務総長などを歴任された方であり,戦後創設された最高裁判所の歴史そのものに関わられた方なのです。

 

 

 

そのような内容の本ですので,発行後すぐに,私も大変興味深く拝読しました。すると,泉さんが最高裁判事を退官された後に出された,2つの2015年(平成27年)12月16日最高裁大法廷判決(夫婦別姓事件判決と女性の再婚禁止期間違憲判決)についての,泉さんのご感想が述べられていました。

 

 

 

泉さんは,まず夫婦別姓事件判決について,最高裁大法廷の合憲の判決には反対の立場に立つ,と言われます(『同書』266頁)。泉さんは,選択的夫婦別姓を認めずに同一姓を強制することを合憲とした多数意見を読むと,「個」がない,「個」が見えない判決だ,と言われるのです。

 

 

 

泉さんは言われます。最高裁大法廷の合憲判決は,まず社会があり,社会の構成要素として家族があり,家族の中に個人があるという発想である,と。社会の構成要素として家族があるのだから,家族のあり方は社会が民主主義的プロセスで決めればよい,社会全体の便益のためには,家族形態は規格的・画一的である方がよい,というは発想である,と。

 

 

 

でも泉さんは,まず一個の人間としての男と女があり,その男と女が結婚して家庭を作る,家庭が集まって社会を作るのではないか。個人の尊重,個人の尊厳がまず最初に来るべきである。多数決原理で個人の人権を無視することは許されないと思います,と言われています。

 

 

 

最高裁判事などを歴任された泉さんの裁判官としての心の指針は,日本国憲法の母法であるアメリカ憲法にあります(『同書70頁』)。アメリカ連邦最高裁場所の1938年カロリーヌ判決の判決文でストーン判事がつけた脚注4では,法律の合憲性の判断において,立法府の広範な裁量を認めずに,裁判所が積極的に介入しなければならない3つの場合が記載されているのです。脚注4には,「一番目に,憲法が国民に保障する信教,原論,出版,集会の自由棟の基本的人権を制約する立法,二番目に,情報を広め,集会を開き,政治的団体を結成し,選挙権を行使するという政治過程を制約する立法,三番目に,特定の宗教的,民族的,人種的少数者に向けられた立法」と記載されているのです。

 

 

 

泉さんは言われます。「一番目の言論の自由等は民主制の政治過程に不可欠な権利だからです。二番目は,民主制の政治過程そのものを制約するものだからです。三番目は,少数者に対する偏見のため民主制の政治過程による保護が働きにくいものだからです。この三つについては,立法府の広範な裁量を認めることはできず,裁判所が積極的に介入しなければならない,それは裁判所の役割であるというものです。

 

 

 

これは,代表民主主義国家における立法府と司法府の各役割を説くものであって,日本にもそのまま通用する考え方ですから,日本の裁判所もこの役割を果たしていかなければならないと強く感じましたわずか33行の脚注4は,私の裁判所生活におけるバイブルとなり,後に最高裁判事になってからもこれを基礎にして意見を書いておりました。」

 

 

 

泉さんは,裁判官ご出身の最高裁判事でありながら,最高裁に時代を変える判決を求めて上告された当事者の意見に耳を傾け,その意見を尊重するような個別意見を多く書かれた方です。

 

 

 

私自身も,上の箇所で引用されたストーン判事がつけた脚注4を法律家としての行動の指針にしている者です。最高裁の歴史を支え,歴史を作ってこられた泉さんも,そのストーン判事の脚注4を心の指針とされていたことを知り,大変感銘を受けました。

 

 

そんな泉さんが「裁判所はより積極的に人権救済を図るべきだった」と言われた夫婦別姓訴訟。同訴訟の弁護団を始め,再度の違憲訴訟に向けた動きの情報も耳に入るようになっています。

 

 

 

日本の社会における家族と個との関係。そしてその問題についての国会と裁判所の関係。数年後に再び夫婦別姓訴訟が提起された時は,「泉さんが最高裁判事だったら,どのように考えられるのだろうか」と思うことでしょう。『一歩前へ出る司法』を拝読しながら,そしてストーン判事の脚注4を再読しながら,私なりの「あるべき社会の姿」を考えてみたいと思っています。