日々ブラジルから熱戦が伝えられるリオ五輪の中で,心が掴まれるような気持ちになったニュースがありました(2016年8月18日付四国新聞掲載の記事より要約)。



「転倒の2人,助け合い完走



リオデジャネイロ五輪の陸上女子5000メートル予選で8月16日,接触して倒れたニュージーランドと米国の選手が互いを助け,励まし合って完走する感動を呼ぶ一幕があった。大会前,2人に面識はなかったとされる。



2人はニュージーランドのニッキ・ハンブリン選手(28)と米国のアビー・ダゴスティノ選手(24)。約3千メートルを走った辺りで交錯し転倒した。



ハンブリン選手は体を打ってしばらく起き上がれず泣いていたが,先に立ち上がったダゴスティノ選手が励まし,肩に手を添えて助け起こした。



しかし,ダゴスティノ選手は転倒で足首を負傷しており,直後にへたり込むと,今度はハンブリン選手が手を差し伸べて激励する側に。だが,ダゴスディノ選手の足首の状態はひどく,棄権やむなしの状況。ハンブリン選手はやむを得ず,先に15位でゴールした。



待ち構えていたハンブリン選手は,足を引きずりながら最下位の16位でゴールしたダゴスティ選手と涙ながらに抱擁。ハンブリン選手は「ダゴスティ選手に『五輪だからゴールしよう』と言われた。」と語った。



2人を含む3選手が転倒で妨害されたとして救済措置で8月19日の決勝進出が認められた。けがが治れば,3人は決勝で再び戦うことになる。」




スポーツは,えてして人生そのものにたとえられます。確かに,日々送られてくる勝利のニュースには,長い間努力を積み重ねた方だけが味わえる人生の喜びが込められています。



でも,スポーツが世界中で愛される理由は,決してゲームで勝ったことのみにあるのではないと思います。それだけであれば,スポーツが人生にたとえられることは,決してないはずです。



私にとって,これまでのオリンピックで最も印象的な思い出は,1984年のロサンジェルス五輪にあります。その大会で初めて行われた女子マラソンでの出来事です。



それまでは「女子には酷に過ぎる」として行われてこなかったマラソン競技。それがいきなり猛暑の中で行われたのでした。



私がその女子マラソンが心に残っているのは,歴史上初めて女子マラソンに勝利した選手が出たからではありません。競技で一番最後に競技場に戻って来たアンデルセン選手(スイス)が,脱水症状の中,ふらふらになりながら,競技場の大声援を受けてゴールした姿が忘れられないからです。



「誰か,コーチがトラックに入って,無理やりにでもとめてあげればいいのに」と思いながら見ていたのは,決して私だけではなく,競技場にいた観客の方も,TVでその様子を見ていた世界中の人も,同じ気持ちだったのではないかと思います。



でも,近寄るコーチをふらふらになりながら拒否して,アンデルセン選手はゴールしたのでした。



世界で一番最初にゴールすることも,世界で一番点を取ることも素晴らしいけれども,世界で一番最後まであきらめずに頑張りぬくことも,それと同じくらい大切なことなのだ,ということを,アンデルセン選手は教えてくれたように思います。



スポーツが世界中の人々の心をとらえて離さない理由は,競技の結果ではなく,プロセスにあるのかもしれません。そこに人々は,まるで自分が競技をしているかのように思うのかもしれません。さらに申すと,まるでそれが喜びと悲しみに満ちた自分自身の人生のように感じるのかもしれませんね。



冒頭でご紹介した女子5000メートル走の選手の2人も,努力を続けることや途中で思うようにいかなくても決してあきらめないことの大切さを教えてくれたように思います。さらに申すと,そのようにこつこつと努力をした人には,予想外の決勝進出という,神様からの贈り物も届くのだ,ということまで教えてくれたように思います。



今日行われる女子5000メートルの決勝戦が,1984年のアンデルセン選手の姿のように,今後世界中の人々の心から離れないようなレースになることを,とても楽しみに拝見したいと思っています。