『X教授を殺したのはだれだ!』は,最近発行されたトドリス・アンドリプロスさんの著書です。いわゆる講談社のブルーバックスの一冊として発表されています(2015年刊)。



物語は,数学学会に参加していた1人の数学者が死亡して発見される場面から始まります。



数学学会ですので,当然多くの数学者が参加していました。警察は,複数の数学者を殺人の容疑者として考え,捜査を行います。それに対して,容疑者である数学者は,それぞれの得意分野の公式を使って,自分は無罪であることを証明しようとするのです。



著名な数学者と華麗な証明が繰り広げる謎解きにつきましては,ぜひ本を直接お読みいただき,楽しんでいただければと思うのですが,ここで1つだけ,この本を拝読して私が思い出したお話をさせていただきます。



デカルトやライプニッツらによって,確実な知の技法とされた数学は,20世紀に入り,「人間の計算処理能力の限界」という壁に突き当たっていました。人類が編み出してきた数学の技法の内,「集合」の理論に,致命的欠陥があることが分かったのです。



そんな時,「美しく完全であるはずの数学」を守ろうとした人がいます。ダーフィット・ヒルベルト(1862-1943)です。



ヒルベルトは,「数学に不可能はない」と考えました。ヒルベルトは,「数学は完全なはずである。しかし,現実的に,人間の計算能力に限界があるので,集合の理論に欠陥があると見えるだけである」として,数学の完全性を証明しようとしたのです。



ところが,このヒルベルトの野心は,1人の若き数学者によって打ち砕かれました。クルト・ゲーゲル(1906-1978)が「数学には証明ができない概念がある」「数学は全てを証明することはできない」ことを,証明してしまったのです。



元々,数学とは,神が創ったとされたこの世の調和を証明するために生まれた学問です。そしてそれは,「権力者に太鼓判を押してもらわなくても,私たち市民の1人が正しいことを証明することができる」という,民主主義と共通する人間社会の営みにおける手段として発達した学問でもあります。



その意味で数学は,あくまでも「人間」を主体にした「手段」であり,それは,「人間」という存在を当然の前提にした概念ということができます。



ヒルベルトは,数学の美しさにひかれて,「数学に不可能などあるはずがない」と考えたのだと思います。彼はきっと,あまりに美しいこの世に不調和が存在するはずがない,とも考えたのかもしれません。



ゲーゲルは,そんなヒルベルトの願いを打ち砕く証明に成功してしまったことになります。でも私が思うのは,それでよかったのではないか,ということです。



数学は美しいけれども,決して完全ではない。それはつまり,その数学を生み出した人間そのものが不完全な存在であることを,あたかも数学が証明してくれているように思うからです。



人間は決して完全ではない。私たちの社会活動は,それをしっかりと認識することによって,初めて有効なものとなるような気がするからです。