私が担当させていただく公立女子大学訴訟については,いろいろなマスメディアで取り上げていただき,色々な観点からの貴重な御意見をいただいています。大変参考になります。



そのような中,興味深い御意見が書かれている雑誌記事を拝見しました。最近発売された週刊新潮の2月5日号掲載の「東京情報」という記事です。公立女子大学訴訟について,「女子大に入りたい男」というタイトルで取り上げて,「男女平等と言っても,日本ではあらゆる分野で男女の区別は明確にされている。」として,トイレや銭湯の例を挙げて,訴訟における原告の主張に理由はない,と結論づけている内容です。



私がこの記事を拝見して,とても興味深く感じたのは,「女子大に入りたい男」というタイトルです。つまり,この記事の筆者の方は,公立女子大学訴訟の原告の主張が,「女子大に入学させてほしい」という内容である,と考えられたわけです。



しかしながら,著者の方によるこの問題への光の当て方は,実は原告や私によるこの問題への光の当て方と違うものです。



なぜならば,原告の主張とは,「女子大に入学させてほしい」というものではないからです。



と申しますと,「えっ」と思われる方も多いかと思います。しかしながら,今回の訴訟で原告が求めているのは,決して「女子大に入学させてほしい」というものではありません。



今回の訴訟で原告が求めているのは,「栄養士資格と管理栄養士試験の受験資格を得るために,『地元の公立大学』に入学させてほしい」というものなのです。



つまり,その原告の求めに対して,拒否の理由となったのが「大学は女子大であり,原告は男性である」ということであったにすぎず(「女子大」とは,原告の希望ではなく,拒否理由なのです),原告は決して「『女子大』に入学させてほしい」という希望を有しているわけではないことになります。



上で御紹介した週刊誌の記事を拝見して,1つの事件に対する光の当て方,表現の仕方により,事実は万華鏡のように,違う姿を見せて浮かび上がると改めて感じたのです。






そして問題は,はたして「男性である」ことを理由に,公立大学への入学(出願)を拒否することが,憲法上許容されているのか,ということであります。



これはまさに,裁判手続において争われる点でありますが,色々な方からご質問をいただくこの裁判ですので,少しだけ私の今考えていることをお話しして,皆さんとご一緒に考えてみたいと思います。



第二次世界大戦後,現行の憲法が施行された後,さまざまな男女共同参画立法が制定されてきました。



その変遷における特徴は,「旧来の男女の役割分担の否定」にあります。「男性は仕事,女性は家庭」という旧来の役割分担を否定して,男女が平等に社会活動に参画できるために,それら法律が制定されたのです(例えば,育児休業法は,1970年代に制定された当初は,女性のみに育児休暇の取得を認めていたのに対して,1990年代に改正された際には,男女ともに育児休暇を取得できるようになりました。「子育ては女性の役割である」という旧来の役割分担の否定です。)。



そして,それら男女共同参画立法が行われる中,ある2つの女子大学が,共学化しているのです。現在の熊本県立大学と,長崎県立大学です。その2つの県立大学では,栄養士資格と管理栄養士試験の受験資格を取得することができます。



熊本県立大学が共学化したのは1992年です。高等学校で家庭科が男女ともに必修化された年でした。学校教育における旧来の男女の役割分担(「家庭科は女生徒のみ受ければいい」という役割分担)が否定された年です。



長崎県立大学が共学化されたのは1999年です。男女共同参画社会基本法が制定された年です。その立法趣旨も,やはり「旧来の男女の役割分担の否定」にありました。



そのような男女共同参画立法の制定と女子大の共学化という社会的事実が,紙に書かれた憲法にいかなる意味を与えるのでしょうか。またそれらの社会的事実が,社会的因子として,憲法の動きをどう促すのでしょうか。



私達の憲法14条1項には,「すべて国民は,法の下に平等であって,性別により差別されない。」と規定されているのです。裁判では,21世紀の現代において,私達がその憲法にいかなる意味を与えるべきなのかが問われることになります。また御報告いたします。