私は,子供の頃から漢字の「亀」がとても好きなのです。「亀」の漢字は,まさに生き物の亀の姿から生まれたことを示す形をしており,大昔の方々も,あのユーモラスな亀の姿を見て,目を細めていたことを,感じることができるからです。



そんな漢字の成り立ちを,とても分かりやすい文章で書かれている本が,阿辻哲次さんの著書『部首のはなし』『部首のはなし2』(いずれも中公新書)であります。中国文化史をご専門とする阿辻さんが,漢字の成り立ちに込められた人々の思いを月刊誌に書き綴った文章をまとめた作品です。



その中で,私が特に印象的だった話があります。それは「象」の漢字についてのものです(『部首のはなし』124頁)。



ゾウといいますと,タイやインド,アフリカなどの熱帯の生き物のように思いがちですが,阿辻さんによりますと,古代中国では,黄河中流域に野生のゾウが生息していたのだそうです。



実際に,古代中国で作られた青銅器の中には,長い鼻を上に大きく巻き上げたゾウの姿が描かれたものがあるそうです。



ところが,地球の乾燥化とともにゾウの生息範囲がどんどんと南に移り,やがて中国ではゾウの実物を目にすることができなくなってしまったのです。



しかしながら,土の中からはかつて生きていたゾウの骨が出てきますので,人々はそれを頼りに,「ゾウとはどんな生き物だったのだろう」とあれこれ考えながら,「象」という漢字を生み出したのだそうです。



そこから,実際には見ることができない事物を脳裏に思い描くことを,古代中国の人々は,「想象」と表現したのです。そこから変化したのが,現在の「想像」であります。「象」が「像」へと変化したプロセスには,「人」が「象」を思い描く,という本来の意味が込められているのかもしれませんね。






阿辻さんの御本には,「象」のお話の外にも,文字に込められた人々の思いを感じることができるエピソードが溢れています。



例えば,よく「親」という漢字は,子のことを木の上に立って見る,と書かれている。それは,親が何歳になっても,子のことを遠くから見守っている姿を,描いたものなのだ,という説明を,よく耳にしますね。



でも,阿辻さんによりますと,「親」という漢字そのものの,本来の意味としては,そのようなものは含まれていなかったそうなのです(『部首の話』115頁。文学的には,「木」の上に書かれているのは「立」ではないのだそうです)。



でも逆にそのエピソードは,活字として生まれた「親」の漢字には込められていなかった意味を,後の社会の人々が長い歴史の中で,その漢字を受け継ぎながら与えていったことが,親の子に対する思いや,社会の親子についての思いが活漢字に込められていった歴史であることを意味するように思えて,とても感慨深く思います。






また阿辻さんの御本には,法律家の「法」の字についてのエピソードも書かれているのです(『部首のはなし2』68頁)。



法律を学ばれた方や,法律にご関心をお持ちの方でしたら,なぜ「法」の字は,「水」を意味するさんずいへんなのか,と思われた方がいらっしゃるのではないでしょうか。



阿辻さんによりますと,実は「法」も元々は水に関する漢字だったそうなのです。



古代中国で,「法」はとても難しい「灋」(ホウ)という形でした。「灋」(ホウ)は,「水」と「去」と「廌」(タイ)を組み合わせた漢字です。



実は「廌」(タイ)とは,ヒツジに似た動物で,古代の神聖裁判に使われた神獣なのです。



古代中国では,「廌」(タイ)には神秘的な能力があり,裁判の場で嘘をついている人間を角でつく,と信じられていたのです。



その結果,神聖裁判では,人が判決を下すのではなく,「廌」(タイ)の行動こそが判決で,「廌」(タイ)につかれて敗訴した人が川に流されたのです。



そのような古代中国における神聖裁判を意味した「灋」(ホウ)の漢字が,一部を省略して使われるようになったのが,「法」の漢字であり,だから「法」は,水を意味するサンズイヘンなのです。



動物が行った偶然の行動を判決として,社会を動かしていた時代から,証拠に基づく合理的な裁判が行われている現代に至るまで,その「法」の漢字は脈々と受け継がれてきたことを知ることができます。



でも,社会がその水を意味するサンズイヘンが用いられた「法」の漢字を用い続けたということは,おそらくは多くの過ちを生んだであろう古代の神聖裁判の反省を,決して忘れないでほしい,人は完全ではないのだから,という意味と思いが,「法」の字に込められ続けた結果のような,気がしています。