私が大学院に通っていた頃,アメリカのハーバード大学から来日された先生が,特別に英米法を教えてくださった機会がありました。



その先生が,日本の大学院生に向けた演習で題材として選んだテーマが,「アファーマティブ・アクション」だったのです。



アファーマティブ・アクションとは,黒人など,歴史的に差別されてきた人種の人々の社会的地位の回復の意味を込めて,例えば大学の入学試験に黒人の人だけが通る特別枠を設けるような場合を指します。



そのような制度を設けようという歴史的な意味は広く理解されるところではありますが,それが法律上の制度として実際に設けられ,さらには,その制度によって,例えば黒人の方がある大学にその特別枠により合格して,白人の方がその枠であれば合格できる点数を取ったにもかかわらず,白人であるがために通常枠で不合格となるならば,いわゆる「逆差別」として,法の下の平等を定める憲法に違反するのではないか,が指摘されているのです。






冒頭で申した大学院での演習でアメリカの先生がこの問題を取り上げたことからも分かるように,この制度の憲法適合性を巡っては,未だにアメリカの社会を分かつ論争を巻き起こしているのです(あのハーバード大学のサンデル教授の「白熱教室」においても,この「アファーマティブ・アクション」の問題が取り上げられ,熱心な議論がされていました)。



アメリカの連邦最高裁判所は,①日本の医学部に相当するメディカル・スクールの入学試験でのアファーマティブ・アクションの適法性が争われた1978年のバッキー判決において,黒人のための特別枠を設けることは憲法の定める平等保護条項に違反すると判断したのに対して,



②2003年には,ミシガン大学のカレッジ入学に際し,100点以上あれば自動的に合格できる中で20点を当然に少数者に付与する仕組みにつき,事実上の特別枠であるとして違憲とする一方,,成績(学部成績およびロー・スクール適正試験)を基本としつつも,学生集団の多様性を確保するために人種的・民族的少数者にも配慮するという同大学のロー・スクールの優先処遇については憲法に違反しない,としたのです。



つまりアメリカ連邦最高裁判所の立場としては,①少数派人種のみを優先する制度としての優先枠を設けることは,法の下の平等を定めた憲法に違反して許されないけれども,②制度としての優先枠を設けるのではなく,大学への入学者を決めるに際して,ある受験生が少数派人種の人であるということを選考判断要素とすることは,憲法に違反しない,という判断をしたことになります。






この,とても難しい問題について,つい先日,アメリカ連邦最高裁判所は,再び新しい判断を行いました。2014年4月23日付ABC放送の報道によると,ロー・スクールの入学を希望する黒人の受験生の方が,受験を希望する州立大学ロー・スクールに少数人種のためのアファーマティブ・アクション制度が設けられていないことを受け,「アファーマティブ・アクションを設けることを州立大学に命令すること」を求めた訴訟を提起していたのです。



その訴訟においてアメリカ連邦最高裁判所は,「州立大学にアファーマティブ・アクションを設けることを命じることは,法の下の平等を定めた憲法に違反する」という理由で,その方の請求を認めなかったのです。



上で申したアメリカ連邦最高裁判所の立場からいうと,「制度としてアファーマティブ・アクションを設けることは許されない」場合に該当するため,この結論に至った,と考えることができるでしょう。



さらに申すと,このアファーマティブ・アクション制度そのものに対する黒人を始めとする少数人種の方々からの評価の変化も,この判決に影響を与えたように思います。



アメリカ連邦最高裁判所裁判官を務められているトーマス判事は黒人の裁判官の方なのですが,このアファーマティブ・アクションの問題につき,以下のような発言をされています。



"Once it is assumed that everything you do achieve is because of your race, there is no way out."



「一度人種のおかげで達成できたのだと思ってしまうと,そのサイクルから抜け出すことができなくなるのだ。」






ご自身は黒人であるトーマス判事ですが,黒人をはじめとする少数民族であることから当然に利益を受けることに慣れてしまうことは,その少数民族の人たちにとって良くないことである,と考えているのですね。とても興味深いことだと思います。



社会的に差別を受けてきた少数民族の方々に対して試験制度で特別枠を設けることは,その歴史的な問題を解決することにつながります。でもそれで不利益を被るのは,そのような歴史的な差別には直接関わっていない,現在の社会で生きている白人の方々なのですね。この問題を私達はどのように考えるべきなのでしょうか。



このブログでも何度もお話してまいりました。法律そのものは紙に書かれた活字にすぎません。私達はこの社会で発生した問題に対し,それぞれの立場からその問題と法律に光を当てます。そして多様な光に照らされた法律は,自ら意思を有するかのように,動き出すのです。




今回の訴訟の原告であった黒人の受験生の方はその方の立場からこの問題に光を当てました。それに対して,トーマス判事は,トーマス判事としての光を,この問題に当てたわけですね。



それは決して,アメリカだけの問題ではありません。アファーマティブ・アクションの適法性は,日本の社会における問題でもあるのです(世界中のアファーマティブ・アクション制度を比較した上で,日本における導入を検討されたとても興味深い本に,辻村みよ子『ポジティブ・アクション「法による平等」の技法』(岩波新書,2011年)がありますので,ご関心をお持ちの方はぜひご覧下さい。)。



実は,日本の司法試験や予備試験でも,このアファーマティブ・アクションの問題が出題されているのです。それはきっと,「司法権の担い手」としての能力を見るために,とても適した問題だからに他ならないと思います。



アメリカ連邦最高裁判所が,この問題に光を当て続けているように,私達も,社会のあるべき姿を予言するかのような光を,この問題に当てていくことになります。それは社会が社会である以上,永遠に課せられた課題なのだと思います。