映画『ハンナ・アーレント』を見る機会がありました。主人公の女性ハンナ・アーレント(1906-1975)は,ドイツ出身のユダヤ人であり,哲学者の方です。



ドイツの大学で,国を代表する哲学者であるハイデッガーの教えを受けたハンナ・アーレント。彼女は,ハイデッガーの哲学とともに,彼の人柄そのものにも魅了されていきます。



でも,時代はナチスの台頭を産み,ユダヤ人への迫害が行われるようになります。そして,ハンナ・アーレントの師であるハイデッガー自身が,ナチスと関わるようになるのです。



ハイデッガーが生み出す美しい哲学と,社会の現実との乖離に苦しむハンナ・アーレント。とうとう彼女は,ナチスに対するフランス降伏と同時に,アメリカへと移住し,その後はアメリカで哲学者としての活動を続けたのでした。




アメリカでは,出版社の求めにもなかなか執筆に応じなかったハンナ・アーレント。でも,そんな彼女が,自ら記事を書きたい,と出版社に持ちかけた事件が起きます。ナチス戦犯だったアイヒマンが,大戦後に,潜伏中のアルゼンチンでイスラエル政府により拉致され,イスラエルに連行された後,裁判を受けることになったのです。



アンナ・ハーレントは,自らイスラエルに行き,裁判を傍聴します。そしてその裁判において,アイヒマンがなぜあのような残忍な行動を行ったのかの理由を,突き止めようとしたのでした。



でも,傍聴を重ねていくうちに,彼女は予想に反する感想を持つようになり,その感想自体に苦しむようになるのです。それはまるで,自らが愛してやまなかったハイデッガーの哲学とハイデッガー自身の行動との乖離に苦しんだように。



悪はアイヒマンにあるのか。それともナチスという組織にあるのか。それとも当時のドイツという国そのものにあったのか。アンナ・ハーレントの苦悩は続きます。





この1961年にイスラエルで行われた,元ナチス戦犯のアイヒマンの裁判は,多くの問いを,現代に生きる私達に投げかけています。



裁判において,アイヒマンの弁護人は次のような主張を行いました。



「被告人が犯した犯罪は,イスラエル国境の外において,しかもイスラエルが国家として成立する以前に,イスラエル国民でなかった人々に対して行われたものであり,またその犯行は外国政府のために義務を遂行する過程において行われたものであって,これを処罰しようとするイスラエルの法律は国際法に反する」



この弁護人の主張においては,2つの問いが投げかけられています。



まず第一の問いです。「罪刑法定主義」が現代文明国に共通する刑事裁判の鉄則であるのならば,アイヒマンを始めとするナチスが虐殺を行った第二次世界大戦当時,イスラエルという国は存在していませんでした。その虐殺行為の後で成立したイスラエルという国が,行為の後で制定した刑法に基づいて,制定前の行為を裁くことができるのでしょうか。そのような問いかけですね。



次に第二の問いです。ナチスによる行為は,ドイツ国内法に根拠を得て,その義務を履行する形で行われていたものでありました。その行為を裁くとは,どのようなことなのか。それは「人権を保障する」とはいかなることなのか,人権と国内法との関係をどのように考えるべきなのか,という哲学的な問いなのです。



判決によりアイヒマンは死刑に処せられました。その裁判を傍聴しながら悩み,考え抜いた哲学者のハンナ・アーレント。彼女の苦悩は,現代人権概念を生み出すまでの人類の苦悩と,その創造の過程そのものが投影されていたようにも思えます。



とても素敵な,そして考えさせられる映画だと思います。ご関心をお持ちの方は,ぜひご覧下さい。