最近,安倍首相の国会での演説などから,「立憲主義」という言葉が改めてクローズ・アップされています。



その「立憲主義」について,2014年2月16日付朝日新聞掲載の「天声人語」で,興味深い記載がありました(同日付朝日新聞大阪版より)。



「憲法はなんのためにあるか。時々の政治権力ができることとできないことを定め,その手を縛るためである。



選挙で正当に選ばれた政権であっても,多数の力で乱暴なことをするかもしれない。たとえば人々の人権や自由を奪う,とか。



民主主義は優れた仕組みだが,民主主義だけではあぶなっかしい。だから,憲法であらかじめ枠をはめておく。



権力に対して,立憲主義はとても疑り深い。」



国会で制定される法律は,私達の社会を規律するルールであり,そうであるからこそ法律には拘束力が付与されるのです。



では,国会において,多数決によれば,いかなる法律も制定することができるのか,という問題を提示するのが,「立憲主義」という言葉です。



この問題は,「憲法(立憲主義)」が念頭に置いている「人間像」を解きほぐすと,とても理解しやすくなると思います。今日の記事では,その「憲法(立憲主義)」の理念を実現する機関である司法権の担い手の1人として,私なりの考えをお話したいと思います。






最近目にした中学生のための教科書で,朝日新聞の天声人語でも問題とされた「立憲主義」,「議会制民主主義」について,以下のような記述がされていました(『新しい社会公民』(東京書籍,2013年)67頁)。



「話し合っても意見が一致しないこともあります。その場合は,最後は多数の意見を採用することが一般的です(多数決の原理)。



そのとき,反対の意見を持つ人も多数の意見に従うことになるため,結論を出す前に少数の意見も十分に聞いて,できるだけ尊重すること(少数意見の尊重)が必要になります。



このように,民主主義では,一人ひとりの国民が政治の主役ですから,政治に積極的に参加することが求められているのです。」



この教科書の記載のとおり,多数決で物事を決める場合には,十分に意見を出し合い,少数意見が指摘する点も十分考慮に入れた上で,結論を出す必要があります。



ただそれは,決して「そのように決めさえしたならば,どのようなことをも多数決で決めてよい。その結論を少数者に対して拘束力を持って強制して良いのだ。」ということを意味するものではないのです。



「立憲主義」とは,憲法という社会における最高の効力を有する法を,社会の権限を行使する者であっても,逸脱してはならない,という意味です。それは,国会における多数決であっても,憲法を逸脱することが許されないことを意味しています。



「立憲主義」とは,「この世には完全な人は存在しないのだ」という,人類が長い歴史をかけてたどり着いた,とても悲しい現実を前提にしたものなのです。



この世には完全な人はいない。人は決して完全ではない以上,物事を全ての側面から見ること,評価することはできない。だから国会では,民主主義の下,多くの人が,自分の有する価値観に基づき,その社会問題に光を当てるのです。そして,多様な光が当たった上で,多数決で物事を決め,社会を進めていくのです。これが議会制民主主義です。



そのような意味からしますと,冒頭で御紹介した朝日新聞の「天声人語」で「民主主義は優れた仕組みだ」とされている点については,私の考えでは「民主主義とは,人が不完全であることを前提にして,それでも社会を動かしていくために編み出された知恵(手段・方法)の1つにすぎない」と表現することになると思います。



さらに,人が完全ではない以上,そのようにして民主主義のルールに基づき多数決で決めたことであっても,やはり過ちが生じることになります。多数決で少数派の人権を侵害する法律を制定する場合がその典型になります。



「このようなことまで多数決だからといって法律を用いて強制されるのならば,私達はこの社会から出て行きます」という結果とならないように,不完全な人類は,この社会には多数決では決めることができないことがあるのだ,という理念の下に,憲法を定めて,多数決でも逸脱できない法をそこに規定したのです。それが人権規定になります。



そして,「この法律は憲法に違反するので無効です」と判断するのが,司法権としての裁判所になります。その権限を「違憲立法審査権」と申します(憲法81条)。憲法により「私達の社会において多数決で決めることができないこと」を守ろうとする理念こそが,「立憲主義」であり,その理念の実現の担い手が裁判所である,ということになるのです。



そのように考えてみますと,「民主主義」という理念そのものが,決して私達の社会における目的ではないことに気付かされるのです。私達の社会における目的は,あくまでもその「人権保障」にあり,その目的実現のために定められたのが憲法であり,やはりその目的実現のための一手段として用いられるのが,「民主主義」である,ということになるのです。



それがまさに「立憲主義」であります。確かに私達は不完全な存在なのかもしれません。でも,私達人類は,それでも社会をより良い姿にしたいと願っています。その願いを有する人類が,不完全な人類が編み出した知恵こそが「立憲主義」だということになるのです。